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    安倍内閣の暴走を誰が止めるのか。

    2014年7月5日(土)

    カテゴリー» 政治レポート

     安倍内閣がついに集団的自衛権の行使を容認する閣議決定を行ったが、まさに結論先にありきでそこに持っていく為のシナリオを作って、そのシナリオ通りに事を進めてきた結果だと言わざるを得ない。

     私は集団的自衛権の行使を容認することには断固として反対であると一貫して言い続けてきたが、安倍内閣はこの閣議決定によって長く続いてきた我が国の立憲主義を根底から覆すという取り返しのつかないことをやってしまった。一内閣の解釈によって事実上憲法の条文を変えることを認めてしまったら、最高法規たる憲法が意味をなさなくなるわけで、絶対に許してはならないことである。

     安倍首相は「最高責任者は自分だ。」としきりに言うが、安倍首相は行政権の最高責任者であるが、国家の最高権力者ではない。憲法65条に「行政権は、内閣に属する。」と書かれており、それをもって自分は最高責任者だと言っているのだろうが、その行政権は憲法が内閣に与えているのであって、憲法の上位に内閣総理大臣が位置しているわけではない。憲法によって行政権を委ねられているということである。従って憲法を変えていいとか勝手に解釈していいというような権限を与えられているわけではない。だから憲法99条には「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。」と書かれているわけで、憲法を遵守するということ、勝手な解釈は許さないという当然のことを述べて敢えて釘を刺しているのである。

     そして本来は憲法に違反しているのかしていないのかの判断は裁判所がやるべきことである。立法権、行政権に携わる人達の行為が憲法に違反しているのかどうかは最終的には最高裁が判断する。それを一内閣が勝手に判断してよいなどとは全く想定していない。憲法81条には「最高裁判所は一切の法律命令規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」と明記されている。そして憲法の下で行政権を委ねられている内閣の行為が憲法に違反しないようにするとともに、多くの法律の整合性を保つ為に内閣法制局がある。従って内閣法制局は法律の専門家の集団でなくては困るし、そのトップである内閣法制局長官は主に法制局内部から専門家を起用することが慣例となっていたのである。ところが今回は内閣法制局でブレーキがかかると困るから、長官に外務省出身者を敢えて起用し、憲法に違反していないということを法制局に言わせる、むしろ積極的に進める為に手伝わせようとした。まさに内閣法制局が本来やるべきことをいい加減にしてしまった。今、解釈改憲はおかしいと主張している人達の中に複数の良識ある内閣法制局長官経験者がおられるが、今回のことで内閣法制局の権威は著しく損なわれたと思う。

     そもそも国権の最高機関である国会が、内閣のやっていることはおかしいと当然言わなくてはいけない。ところがその国会において、特に最大の与党の自民党が黙ってしまっている。かつての健全な自民党であれば、党内で党を二分する大激論が行われたはずだが、現状は村上誠一郎代議士が勇気を持って正論を述べているだけで、他の多くの議員は執行部を恐れて御身大切とばかりに異論を唱えようとしない。その自民党が多数を占めている上に野党の中にも共同歩調をとる党があるのだから、国会の場で反対意見が非常に出にくくなっている。そのことも安倍首相の行動を早めたことにつながったと思う。

     国権の最高機関である国会は与野党ともにここでもう一度、内閣総理大臣はどういう立場なのか、憲法上どういう権限を与えられているのかよく考えなくてはいけない。歴代の内閣が個別的自衛権は容認できるけれど、集団的自衛権の行使は容認できないという判断をしてきた。憲法上の制約があるから容認できないわけであり、行使を容認したいのなら堂々と憲法改正をやるべきで、内閣が勝手に判断して憲法を事実上変えてしまうことを許してはならない。更に連立与党である公明党の良識ある判断に期待したが、残念ながら我々の期待は裏切られてしまった。公明党の幹部が閣議決定後に述べていることは我々には意味不明である。平和主義は公明党が一番大切にしていることで、平和の党であることは全く変わっていないと言っているが、そうであるならば集団的自衛権の行使を容認することがどうして平和を守ることにつながっていくのか、私には全く理解できない。

     集団的自衛権の行使を推進しようとしている人達の言い方によると、周辺の国々、中国や韓国や北朝鮮の日本に対する攻撃の抑止力が強まったと言うが、これは全く逆だと思う。抑止力が強くなるというより、むしろ攻撃される危険性が増すことに他ならない。安倍首相は国民生活を守り、国の安全を守る、その為にプラスなのだと強調するが、アメリカの総合的な国力が落ちてきている中でアジアにおけるアメリカの存在感を維持する為に、いかに日本を利用していくかということがアメリカの本音だろう。日本の国土や国民の安全を守る為というよりも、日本の国の外でアメリカと共に戦う、そのシステム作りを始めようとしているとしか思えない。

     集団的自衛権の行使容認の例として機雷の除去、掃海活動を挙げているけれど、機雷はまさに戦闘行為の中で敷設されているのであって、それを除去することは敷設した側から見れば敵対行為になる。こちら側がいくら平和の維持の為に除去していると言ってみても、機雷を敷設した側はそんなふうには思わない。またアメリカがどこかの国と戦っている時に武器・弾薬やその他の物資を補給する。これを後方支援活動を言っているけれど、武器・弾薬などの物資を補給する行為そのものが戦闘行為と見做される。それから戦闘地域や危険な地域から邦人を早く日本へ返そうと、その邦人輸送をするアメリカの艦船を守ることも必要だと言うが、そのことを何もアメリカに頼む必要はないし、そういう危険な地域にいる邦人を日本に安全に返すことはまさに個別的自衛権で十分できる。アメリカの助けを借りなくても日本が独自の判断で行えばいいことである。そういうことを例に挙げて議論すること自体、全く意味のないことだと思う。

     いずれにしても日本が戦争に巻き込まれる恐れが格段に強まったと言える。「家族が自衛隊員である以上、命令には従わざるを得ないと思うけれど、日本の国土や国民を守る為に自衛隊に入ったはずなのに、他国に行って戦闘行為に参加しなくてはいけないというのはいかがなものか。」などと自衛隊員の家族が心配するのは当然のことだ。こういうことであるならば自衛隊に入っていてほしくないという声も出てくるだろうし、集団で自衛隊を辞めるような人達が出てくることもあり得る。そういうことが広まってきた時に現在の志願制が成り立たなくなってくる。自衛隊の勢力を維持する為に、いずれは徴兵制の道を開くことになってくる危険性もある。とにかくわざわざ日本の周辺を危ない状況にしていくような外交政策をとっておいて、危ないからアメリカと一体化しなくてはいけないというようなことを言うのも、平和国家のリーダーとしては間違っていると思う。世界の緊張が高まって危険な状況になればなるほど、日本を敵視する国を減らし、より多くの国にとって必要な存在になっていく道を選ぶべきだと思う。安倍首相は「普通の国になる。」と言うが、普通の国である必要はない。むしろ世界に例がない平和憲法を持っている特別な国であることを誇りに思うべきだし、他の国にはない独自の外交戦略を確立していくべきだと思う。

     安倍内閣の方針を支持する若い人達の中に、「日米安全保障条約を結んでいるのだから、お互いに守り合うのが当然ではないか。日本がアメリカに守ってもらっておきながら、アメリカを守れないというのはおかしい。」とコメントする人がかなりいる。それを言うのであれば、集団的自衛権の行使を容認するからには米軍の日本における駐留を断るべきだと言いたい。日本はアメリカを守る義務はない、守ろうとしても憲法の制約があってできない、だからそれに代わるものとして米軍の基地と駐留米軍を日本の国内に置くことを認める、しかも基地の駐留経費を日本も応分に負担するということで成り立ってきたのである。だから集団的自衛権の行使を容認するというのなら、自分の国は自分の力で守るという国民の覚悟を前提にして日米安全保障条約を見直し、米軍の基地や米軍の日本からの撤退を求めるべきではなかろうか。自らの力で自国を守れない国が他国を守れるはずがないし、米国と対等な立場で集団的自衛権を行使できるはずもない。

     やはりこの際は、今回の内閣の決定は憲法に違反しているという訴えを多くの国民が起こすべきではなかろうか。そして裁判所の判断を仰ぐことと同時に国民に信を問うべきであろう。直近の衆参両院の選挙の時に、集団的自衛権の行使を最大の争点として選挙に勝ったのならば、安倍首相が言っているように国民の判断を得ているのだと言えるかもしれないが、そうではないわけだから、やはりもう一度速やかに解散をして国民の信を問わなくてはいけない。しかしながら前述したように、今回の内閣の判断を容認するような野党もあるのだから、野党全体がまとまって解散に追い込むようなエネルギーは出てこない。国会が閉会になったので閉会中審査をやるようだけれど、内閣の決定を覆すような論戦は期待できない。秋の臨時国会か来年の通常国会で内閣は関連した法律の改正案を提出することになっていくが、その法案の審議を通じてもっともっと本質的なことを国民に知らせていくような論戦を展開する為に、今こそ野党は頑張らなくてはいけない。

     現在、集団的自衛権の行使容認に反対する人達のデモが首相官邸周辺をはじめ各地で行われたり、地方議会で反対決議が行われたりしている。こうした国会の外での一般の国民の勇気ある行動が国会議員を動かし、国会における国の命運をかけた大論争が始まることを心から期待している。

    集団的自衛権について

    2014年6月21日(土)

    カテゴリー» 政治レポート

     今国会が会期末を迎える。政府提案の法案などは、衆参両院とも与党が多数を占めているので政府・与党の思い通りに処理されてきたが、何と言っても最大の問題は集団的自衛権の行使を容認する閣議決定を少しでも早く行いたいという安倍首相の姿勢だ。

     公明党との間の与党協議がうまく進まないということで、自公の間では今国会中の閣議決定は難しいと判断したようだが、更に協議を加速させてできるだけ早く閣議決定したいという安倍首相の意向は益々強くなってきている。公明党は自民党の提案に対して色々と意見を言っているようだが、行使を容認した上でそれにできるだけの歯止めをかけたいという、いわば条件闘争になっているように見える。これでは全く何の歯止めにもならない。

     そもそもこれは極めて簡単な話で、集団的自衛権の行使は認められないという歴代内閣の解釈を変えて、行使を容認できるようにしたいという安倍首相の考えに対して容認できるかできないかをハッキリ言えばいいだけの話なのである。個別的自衛権も集団的自衛権も国際法では認められている権利だが、日本は平和憲法を持っていることから個別的自衛権はギリギリ行使できるけれど、集団的自衛権の行使は憲法上容認されないというのが歴代内閣の基本的な考えであるわけで、集団的自衛権の行使に条件を付ける云々というような話ではない。

     憲法上の制約があるから集団的自衛権の行使は容認されないということなのだから、行使を容認したいと言うのなら堂々と憲法を改正するということにならなければおかしい。憲法上の制約を取り除く為には憲法を改正するしか方法はないはずである。それを憲法改正の手続きを取らずに内閣によって憲法解釈を変えてしまうことは立憲主義そのものを否定することになる。今の自公協議を見ていると、その最も大切なところを飛び越えてしまって、集団的自衛権の行使を容認するにあたっての条件についての話し合いをやっているに過ぎない。公明党は平和を守るという立党の精神よりも政権与党であり続けたいという方を優先しているように見えて仕方がない。極めて残念なことだと言わざるを得ない。公明党には何とか頑張ってほしいと期待を持って見守っているところである。

     そして何よりも残念なことは、自民党内で安倍内閣の方針に異論を唱える人達の声が全く聞こえてこないということである。このコラムでも何度か指摘してきた通り、まさに安倍内閣の本質が表れてきたが、それにブレーキをかける政治勢力が共産党と社民党以外には国会の中に見当たらない。国民や有識者の間には我々と同じような意見の人達はかなりいると思うが、残念ながら国会の中に我々の意見を代弁するような人達がほとんどいなくなっている。

     それと時代が変わったと言えばそれまでのことかもしれないが、かつての60年安保の時のような、国の将来を憂う若い人達のエネルギーは一体どこへ行ってしまったのだろうか。日本の若者は元気がなくなってしまったとつくづく感じる。「長いものには巻かれろ。」、「寄らば大樹の陰」といったような人達はいつの時代もいないわけではない。しかし国や国民が危険に晒される恐れがあるという大きな判断を政治が下す時には、それを注視して堂々と発言したり行動したりしなければ、その暴走は止められない。最後は国民の判断なのである。しかも今のマスメディアは現内閣をサポートするような流れになってしまっており、批判的なメディアが少ないことも恐ろしいことである。

     日米安全保障条約において、アメリカが日本を守る義務を負っているのに日本がアメリカを守る義務を負っていないのはおかしいと言う人がいるが、アメリカの国益の為に日本がアメリカを守る義務を負うことは日本の憲法上あり得ないことなのである。だからアメリカを守る義務は負わない代わりに日本国内に米軍基地の駐留を認めて、その駐留経費を日本が応分の負担をしてきている。そのことが安保条約上担保されていることで成り立っているのである。仮に集団的自衛権の行使を容認するということになったとしたら、まさに日本にとって不平等な条約になってしまうのである。

     集団的自衛権の行使を容認することは、アメリカにとって極めて都合のよいことである。安倍内閣は日本が危険に晒された時のことばかり話をするけれど、集団的自衛権は日本が危ない時ばかりではなく、アメリカが危ない時には日本が共同防衛の義務を負う。安倍首相は自国の安全が守れないとか、国民の安全が確保されないといったことばかり言うけれど、そういうことを言いながら一方では中国、韓国との関係を悪化させ、ロシアとの関係も決してよくなっているわけではない。今日、中国の台頭あるいは中東の不安定な情勢、ロシアの対ウクライナの問題等々、世界が益々多極化、多様化している中で、日本の安全を守るということは、世界中に敵を持っているアメリカと一体化することではなく、できる限り日本を敵視する国を作らないことが日本を守る最も重要な外国戦略だと私は言い続けてきた。

     どういう内閣であっても憲法の条文の解釈を変更し、関連した法律を変えていくということは、憲法そのものをないがしろにしていることになる。内閣の憲法解釈で事実上の憲法改正をやってしまうことは立憲主義国家を根底から壊すことであり、絶対に許してはならない。来年は第二次世界大戦終了後、70年の節目を迎えることになるが、我が国は今まさに戦後最大の危機に直面していると思う。

    集団的自衛権について

    2014年4月16日(水)

    カテゴリー» 政治レポート

     今、日韓関係、日中関係が極めて不正常な姿になっている。韓国や中国や北朝鮮やロシア、そういう国々に対して日本の主張を通す為には、もっとアメリカと一体化してアメリカの力を借りなくてはいけないという考えの人もかなりいることは間違いない。

     しかし日本が武力に訴えて国際紛争を解決したり侵略行為はやらない国だというように思われてきたのは、やはり先の大戦の反省から平和国家としてのイメージを、憲法を基にして作り、それを今日まで守ってきたからである。仮に憲法が自衛権を認めていたとしても、あくまでも専守防衛という日本が他国から攻撃を受けたり侵略をされたりした時に自ら守る権利を持っているという範囲のことであって、同盟国が他国から攻撃を受けた時にそれを守る義務を負っているとか権利を持っているということではない。

     日米安全保障条約を持ち出してすぐ「日米は同盟関係だ。」、「イコールパートナーだ。」という言い方をする人がいるが、日米安保条約を結んだ時の状況を考えてみれば、アメリカは日本が現行憲法を持っていることは充分に承知しており、その原案がアメリカ側で作られたということからしても、アメリカはその憲法を前提にした上で安保条約を結んでいるのである。

     日本が他国から侵略をされたり攻撃を受けたりした時に、アメリカは日本を守る義務を負っているが、アメリカが他国から攻撃されたり侵略されたりした時に日本はアメリカを守る義務を負っていない。そのかわりアメリカのアジア戦略に基づいてアメリカ軍を日本国内に駐留させる、そしてその駐留軍を日本は守り一定の経費を負担することがお互いの責任として結ばれている条約なのである。それを飛び越えたことを日本が率先して行う必要は全くない。

     アメリカは今、国力がどんどん弱くなってきている。もちろん今でも世界最強の国であることは間違いないが、第二次世界大戦当時のアメリカの相対的な国力から考えると、世界が多様化して色々な大国が次々と力を蓄えてくる中で、アメリカは世界の警察官としての役割をもはや果たせなくなってきている。アメリカのアジア戦略を実行していくには日本の力をもっと借りたいというのが本音だろう。日本側から集団的自衛権の行使容認をやってくれればアメリカにとってはありがたいのは当然のことだが、そのことによって日本が受ける影響の大きさを考えてみた時に、今の時期にこんなことをやる必要は全くない。

     他国から侵略されたり攻撃されたりする可能性は皆無ではないし、特に今は緊張が強まっている。日本の国土と国民の生命、財産を守ることは政府の責任として当然やらなくてはいけない。だから自衛隊の存在は国民の多数が容認している。

     私の従来からの考え方だが、政治的に言えば日本を守る最大の道は日本を敵だと思う国を少なくすること、理想を言えば日本を敵視する国をなくすことだと思う。日本の存在がどこの国にとっても意味がある、必要だというところまで行けば理想だが、そう簡単なことではない。そうした中で日本を敵視する国を新たに増やす必要は全くない。日本の同盟国とみんなが言っているアメリカは、世界中に敵を持っている国である。言い換えればアメリカくらい敵の多い国はない。そういう国の世界戦略に同盟国として日本が深く関わって、共同で戦略を作ってきているのならまた違うのかもしれないが、アメリカの世界戦略は日本と相談して作っているのではなく、アメリカはアメリカの国益を考えて構築しているのである。その為に使える国は使う、協力してもらえる国には協力してもらう。日本がアメリカの51番目の州なら別だが、あくまでも独立した国同士の関係である。アメリカの世界戦略とかアジア戦略に100%同調するようなことをやったら、作らなくてもよい敵をどんどん増やすことになってしまう。

     集団的自衛権の行使を容認してアメリカと一体化するということではなく、世界にこれ以上敵を作らない、また今の日本を敵視する国に対してできる限り日本の真意を粘り強く説明して理解を得ていくという、高度な外交努力の積み重ねが日本を守る最大の道だと思う。

    集団的自衛権について

    2014年4月16日(水)

    カテゴリー» 政治レポート

     集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈を閣議決定しようという動きが、首相を中心に安倍内閣によって進められている。

     私は昨年の参議院選挙の前にも一昨年の衆議院選挙の時にも、ホームページなどで 極めてバランスを欠いた強権的な政権が作られる可能性があると指摘をした。外交、安全保障でも経済、財政、金融政策にしても日米協調を飛び越して日米一体化のような方向に進もうとしており、極めて危険な様相を孕んでいる。

     安倍首相は昨年の参議院選挙までは参議院で多数を得ていないということから、デフレの解消と景気回復に最重点を置いて、いわゆるアベノミクスを前面に出して国民の圧倒的な支持を得るという手法をとった。そしてその結果、参議院選挙で勝てばいよいよその本質が現れてくると私は指摘をしていた。消費税の引き上げ、TPPへの参加、原発の再稼働、集団的自衛権を行使する解釈改憲を必ずやるだろうと見ていたわけだが、まさにその通りになってきている。もちろん消費税の引き上げも原子力政策もTPPも国民生活に密着した重大な問題である。更に集団的自衛権を行使しないという歴代内閣の統一見解をひっくり返すことによって、日本の将来における国際的な立場、信頼を失い、国民生活が平和に保たれるかどうかという最も大切なことが覆されてしまう危険性が極めて強くなってきたと思う。

     解釈改憲は絶対にやるべきではないと思う。憲法に不備があったり、時代の要請に合わなくなっている部分があるように、憲法と言えども絶対不変のものではないと私は主張してきた。そして憲法は国のあらゆる法律の基になるものであるが、その最も大切な基本法を変えるということも想定しているから改正条項も設けられているのである。

     安倍政権は憲法改正の手続きを整備する為に、国民投票法の成立を急いでいる。 手続きとしては正しいと思う。憲法が絶対不変のものではないということからすれば、堂々と憲法改正を国民に呼びかけて法律的な手続きに沿って物事を進めていけばよいのであって、時の内閣が自分達の都合で憲法の条文の解釈を変え、その新しい解釈に基づいて関連の法律を直していくということが許されることになると、様々な分野で何でもありみたいなことになり、法治国家の基になっている憲法が骨抜きになってしまう。そしてその結果、立憲主義が崩れることになる。政府方針の原案は、日本版NSCと言われる国家安全保障会議の事務局である国家安全保障局がまとめるらしい。 安保法制懇の報告がまとまるのが恐らく5月の連休明けになるとすれば、その後の手続きを考えると閣議決定は夏以降になるとの見通しである。

     与党の自民党は「安全保障法制整備推進本部」を設置して、既に何回か会合を開いているが、今の自民党の空気は集団的自衛権の行使に断固として反対するという空気ではない。せいぜいあるのは集団的自衛権の行使に何らかの歯止めをかけておく必要があるという程度の議論なのである。一方で連立与党の公明党は、平和の党という原点があるのだから慎重な考えを表明しているのは当然のことだと思う。ここでその原点を見失い、安易な妥協をしたら、連立政権をつくっている意義を失うことになってしまうと思う。

     先般、自民党の高村正彦副総裁が砂川判決を根拠にして集団的自衛権の容認論を打ち出した。1959年12月にいわゆる「砂川事件」についての最高裁判決が出ている。自衛権を憲法9条は否定しているものではないという判断を判決として示し、その憲法9条で禁止している戦力は日本が独自に管理、運営する戦力のことであって、外国であるアメリカ軍の駐留を禁止しているわけではないというような趣旨を述べている。しかしながらごく普通に憲法9条を読めば、そこから自衛権の保持、個別的自衛権ばかりではなく集団的自衛権を持つというようなことは、どう解釈しても導き出せないと私は思っている。砂川判決というのは今から55年前、当時の特別な状況下での判決なのである。1960年(昭和35年)に日米安全保障条約を改訂し、いわゆる安保騒動という大混乱が起きた。その日米安保条約の改訂作業を進めている時に日米安保が憲法違反ということになったら、アメリカとしても大変なことになる。どうしても日米安全保障条約は憲法が認めているという結論を出したかった背景がある。

     当時駐日米国大使だったダグラス・マッカーサー2世が、藤山愛一郎外務大臣に会ってアメリカ側の考えを伝えた。更に私自身も驚いたことなのだが、当時の田中耕太郎最高裁長官にマッカーサー大使が密かに会ってアメリカの考えを伝え、その時に田中長官は裁判日程や裁判見通しについて話をし、判決の方向も示唆したという。このように砂川判決は猛烈なアメリカの外交圧力の下に出された判決であるということが、最近になってアメリカ側の資料で明らかになった。そういうことを考えてみれば、砂川判決を根拠にするということはかなり無理があると思う。ここは与党として慎重な判断をしないと国の将来を誤ることになってしまう。私はそのことに非常に危機感を持っている。

     自民党の石破幹事長は、集団的自衛権を行使する為には地球の裏側まで行ってもいいというようなことを言っているけれど、これは言語道断だと思う。(続く)

    選挙制度改革について。

    2014年4月4日(金)

    カテゴリー» 政治レポート

     選挙制度改革が待ったなしの状況になってきている。各党間で話し合ってもそれぞれ思惑が違うので合意ができず、結局第三者機関で審議をお願いするようになったようだ。有識者と言われる方々はそれぞれ立派な方だと思うし、それぞれの考えがあると思うが、必ずしも選挙の実態をよく知っている方ばかりとは言えない。選挙制度は民主政治の根幹に関わってくるといった観点からしっかりと議論して結論を出してほしいと思う。

     議会政治は国民の多種多様な意見をできるだけ政治の場に反映させていく為のシステムとして作られたわけで、直接民主政治の危うさがあるから完全な仕組みではないけれど、議会政治、代議政治がベターだということで今日まで多くの国々で採用してきている。

     議会政治を健全に維持していく為には、多種多様な意見を闘わせることが大事なのは言うまでもないが、最後は結論を出さなくてはならないから多数決によって決められる。ただ最初から結論ありきみたいなことになると議会が形骸化してしまうことになる。予見力、先見性を持った意見というのは最初から多数の意見であるはずがないわけで、常に少数の人達の否定してはいけないような素晴らしい意見は存在している。それだけにそのような少数意見を尊重するという原理は多数決の原理と並んで重要なことである。少数意見を多数意見に高めていく過程を議会政治においては大切にしなくてはならない。そのような議論が活発に行われれば議会が活性化するし、国民にとっても非常に関心が深まってくる。

     そういった本質的なことを考えた時に、選挙制度は日本の場合にはあくまでも二院制であるべきだと思う。戦後、現行憲法の素案がアメリカ側で作られ、一院制を採ろうとしていたのを日本側が粘り強く働きかけた結果として二院制が実現した。 衆議院と参議院が同じ性格のものになってしまったのでは二院制を採っている意味がない。それこそ税金の無駄遣いだとか時間の無駄じゃないかと言われるのは当然のことだと思う。

     議院内閣制を採っている以上、衆議院はどうしても政党政治、各政党の利害がぶつかり合う場になるので、そこで国民の声や立場が二の次になってしまうことはよくある。そういった政党政治の弱点を補完するのが参議院の役割である。だから参議院はその成り立ちから基本的に政党化してはいけないと言える。それを政党化させてしまったことが参議院の権威を著しく低下させることになったし、参議院不要論が出てくる原因にもなっている。

     そしていわゆるねじれが問題だと言われるようになったのも参議院が政党化したからである。今、政権政党の自民党や公明党は昨年の参議院選挙の結果によってねじれが解消したと思っているかもしれないが、本来ねじれというのは存在しないはずなのである。参議院は全く違う性格のものだったはずである。

     参議院の本来の役割は、衆議院の政党政治の行き過ぎを国民や各々の地域の立場に立って是正することにある。 本来は地域代表と職能・職域代表によって構成されるというのが参議院の成り立ちだったはずである。それが今、全く衆議院と同じようになってしまっている。参議院は政党の代表である前に国民の代表でなくてはいけない。また人口比例代表で構成されるべきだはないと私は考える。

     従って選挙区で選ばれる人達は47都道府県一律定数2でよいと思っている。これは地域を代表しているという考え方であり、アメリカの上院も各州の代表という考え方で構成されている。アメリカは下院議員が435人、人口の多い州は定数が多く、人口が少ない州は定数が少ない。一方、上院は人口が多い州でも少ない州でも定数2名、50州で100人しかいないし、そもそも比例代表という考え方はない。まさに地域の代表という立場で 合衆国全体のことを議論するので上院の権威は非常に高いものがある。しかも任期も上院の方が長く、下院は2年ごとに選挙、選挙で追いまくられる。日本のように解散はないけれど、任期は短いのでしょっちゅう選挙ということになる。一方の上院は6年という長い任期を与えられて、じっくり腰を落ち着けて合衆国全体の政策に取り組める。しかも外交については下院以上の力を持っており、条約の締結や政府高官の任命についての承認権がある。

     日本の場合も最初は地域代表という考え方があったのだから、それからすればアメリカの上院と同じように、人口の多いところに多数の議席を与える考え方は採るべきではない。47都道府県一律定数2であれば、それだけで定数の大幅削減ができる。また選挙区の候補者が政党の推薦を受けることは認めたとしても、政党には入らずに無所属でいるべきである。更に職域・職能代表という考え方があるからそれはそれで残していいと思うが、比例区で当選した人も当選したら無所属になるべきだと思っている。やはり政党から離れていかないと参議院の意味はなくなってくる。

     今、衆議院でも参議院でも議長や副議長になると党籍を離脱する習慣が定着している。党に拘束されない院全体の運営を公平な立場で考えるからだが、参議院は議長、副議長だけでなく議員全員が政党の束縛から離れて国民の立場に立って行動すべきだと思う。そのことが逆に参議院の権威を高めることになる。そのかわり政党に入っていない無所属議員なので政府に入ることは禁ずるべきである。従って政務官、副大臣、大臣等にはなれない。もしなる場合には議員を辞職して内閣に入らなくてはいけないようにすべきだ。そうすれば参議院はまさに立法府としての性格が明確になってくる。法律を作ったり直したりすることが本来立法府の一番大きな仕事だが、今は議員提出の法案よりも遥かに内閣提出の法案の方が多い。内閣提出の法案を通す為の単なる機関になってしまっている。もちろん与党の場合には、議会に法案を提出する前に政府と与党との法案の中身のすり合わせを行う慣習が議院内閣制という建前からも行われていることは事実だが、 法律を作ったり直したりするのは立法府の仕事なのだということをもっと明確にすべきなのである。その為には立法機能も強化しなくてはいけない。特に参議院の調査室、事務局スタッフをもっと充実させなくてはいけない。それは決して税金の無駄遣いではない。本来の参議院の役割を取り戻すということからすれば、国民の理解を得られるはずだと思う。

     選挙制度改革というのはあくまでも衆参両院一体でやるべきで、その時に衆参の役割を明確にすることが最も大切なことである。最近の議論はメディアも含めて皆人口比例の考え方になってしまっている。1票の票の重さばかりを強調している。定数是正が最優先だとメディアも評論家も学者も大騒ぎするわけだが、その定数是正をする為の根拠はあくまでも人口になっている。

     私は有権者数がいくら多くても、各種の選挙で半分以上の人が棄権してしまうのが当たり前のような地域が、果たしてどれだけの声を出す気があるのかということも踏まえて考えるべきだと思う。先般の大阪市長選挙にしても東京都知事選挙にしても投票率は極めて低かった。更に最近の国政選挙における大都市の投票率と比べると過疎地や離島の投票率は遥かに高い。政治的な力を求めている地域は生活が政治に密着しているわけで、何とか自分達の声を取り入れてほしいという悲痛な叫びが1票の中に込められている。それを人口の少ないところだからと言って無視してしまうのでは健全な民主政治は実現できない。だから例えば人口の多少に関わらず過去数回の国政選挙の平均投票率を取って投票人口を出し、その投票人口で比較してみるということも議論する必要があるのではないかと思う。このあたりも定数是正の議論の中に一つの大きな要素として入れていってほしいと思う。

     少々次元の違う話になるが、小泉政権以後、国づくりの為に不可欠な国土政策が全く表に出なくなったばかりか、国土政策の中にも経済の論理が持ち込まれるようになってしまった。従って人口の多い地域をもっと発展させるという政策しか出てこない。人口の少ないところは切り捨ててもいいと言わんばかりの政策が出てくる。バランスの取れた国土づくりという考え方が国土政策の基本だったはずなのに、小泉・竹中政治以降その理念が間違いだというようにされてしまった。国土政策に経済の論理を持ち込んだら格差が拡大するのは当然のことで、現実にそうなってしまっている。人の少ないところは切り捨ててしまっていいじゃないか、そういうところに余計なお金をつぎ込む必要はないじゃないかという考え方では益々一極集中が進み、国土のバランスが崩れてしまう。首都圏や三大都市圏に人口が益々集中して、モノもカネも情報もすべて偏ってしまう。政治家がもっと日本全体をバランスよくしていこうという考え方を持っているのならよいが、残念ながらその人達が皆経済の論理に呑まれてしまっている。

     過疎地や離島に暮らしている人達は、やはり「おかしい。」と思っているのだが、その声が小さな声として葬られてしまう。人口が減っていくと議席が減らされてくるから当然声は小さくなる。人口の多いところに定数を増やせということになれば益々人口の多い地域の声が大きくなって、人口の少ない地域の声や意見はほとんど表に現れなくなる。これでは益々日本が歪んだ国になってしまう。

     民主政治、議会政治の基本をもう一度よく考えた上で選挙制度改革に取り組んでほしいと思う。