• Home
  • プロフィール
  • 略歴
  • 事務所
  • メール
  • 亀井亜紀子公式サイト

    集団的自衛権について

    2014年4月16日(水)

    カテゴリー» 政治レポート

     今、日韓関係、日中関係が極めて不正常な姿になっている。韓国や中国や北朝鮮やロシア、そういう国々に対して日本の主張を通す為には、もっとアメリカと一体化してアメリカの力を借りなくてはいけないという考えの人もかなりいることは間違いない。

     しかし日本が武力に訴えて国際紛争を解決したり侵略行為はやらない国だというように思われてきたのは、やはり先の大戦の反省から平和国家としてのイメージを、憲法を基にして作り、それを今日まで守ってきたからである。仮に憲法が自衛権を認めていたとしても、あくまでも専守防衛という日本が他国から攻撃を受けたり侵略をされたりした時に自ら守る権利を持っているという範囲のことであって、同盟国が他国から攻撃を受けた時にそれを守る義務を負っているとか権利を持っているということではない。

     日米安全保障条約を持ち出してすぐ「日米は同盟関係だ。」、「イコールパートナーだ。」という言い方をする人がいるが、日米安保条約を結んだ時の状況を考えてみれば、アメリカは日本が現行憲法を持っていることは充分に承知しており、その原案がアメリカ側で作られたということからしても、アメリカはその憲法を前提にした上で安保条約を結んでいるのである。

     日本が他国から侵略をされたり攻撃を受けたりした時に、アメリカは日本を守る義務を負っているが、アメリカが他国から攻撃されたり侵略されたりした時に日本はアメリカを守る義務を負っていない。そのかわりアメリカのアジア戦略に基づいてアメリカ軍を日本国内に駐留させる、そしてその駐留軍を日本は守り一定の経費を負担することがお互いの責任として結ばれている条約なのである。それを飛び越えたことを日本が率先して行う必要は全くない。

     アメリカは今、国力がどんどん弱くなってきている。もちろん今でも世界最強の国であることは間違いないが、第二次世界大戦当時のアメリカの相対的な国力から考えると、世界が多様化して色々な大国が次々と力を蓄えてくる中で、アメリカは世界の警察官としての役割をもはや果たせなくなってきている。アメリカのアジア戦略を実行していくには日本の力をもっと借りたいというのが本音だろう。日本側から集団的自衛権の行使容認をやってくれればアメリカにとってはありがたいのは当然のことだが、そのことによって日本が受ける影響の大きさを考えてみた時に、今の時期にこんなことをやる必要は全くない。

     他国から侵略されたり攻撃されたりする可能性は皆無ではないし、特に今は緊張が強まっている。日本の国土と国民の生命、財産を守ることは政府の責任として当然やらなくてはいけない。だから自衛隊の存在は国民の多数が容認している。

     私の従来からの考え方だが、政治的に言えば日本を守る最大の道は日本を敵だと思う国を少なくすること、理想を言えば日本を敵視する国をなくすことだと思う。日本の存在がどこの国にとっても意味がある、必要だというところまで行けば理想だが、そう簡単なことではない。そうした中で日本を敵視する国を新たに増やす必要は全くない。日本の同盟国とみんなが言っているアメリカは、世界中に敵を持っている国である。言い換えればアメリカくらい敵の多い国はない。そういう国の世界戦略に同盟国として日本が深く関わって、共同で戦略を作ってきているのならまた違うのかもしれないが、アメリカの世界戦略は日本と相談して作っているのではなく、アメリカはアメリカの国益を考えて構築しているのである。その為に使える国は使う、協力してもらえる国には協力してもらう。日本がアメリカの51番目の州なら別だが、あくまでも独立した国同士の関係である。アメリカの世界戦略とかアジア戦略に100%同調するようなことをやったら、作らなくてもよい敵をどんどん増やすことになってしまう。

     集団的自衛権の行使を容認してアメリカと一体化するということではなく、世界にこれ以上敵を作らない、また今の日本を敵視する国に対してできる限り日本の真意を粘り強く説明して理解を得ていくという、高度な外交努力の積み重ねが日本を守る最大の道だと思う。

    集団的自衛権について

    2014年4月16日(水)

    カテゴリー» 政治レポート

     集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈を閣議決定しようという動きが、首相を中心に安倍内閣によって進められている。

     私は昨年の参議院選挙の前にも一昨年の衆議院選挙の時にも、ホームページなどで 極めてバランスを欠いた強権的な政権が作られる可能性があると指摘をした。外交、安全保障でも経済、財政、金融政策にしても日米協調を飛び越して日米一体化のような方向に進もうとしており、極めて危険な様相を孕んでいる。

     安倍首相は昨年の参議院選挙までは参議院で多数を得ていないということから、デフレの解消と景気回復に最重点を置いて、いわゆるアベノミクスを前面に出して国民の圧倒的な支持を得るという手法をとった。そしてその結果、参議院選挙で勝てばいよいよその本質が現れてくると私は指摘をしていた。消費税の引き上げ、TPPへの参加、原発の再稼働、集団的自衛権を行使する解釈改憲を必ずやるだろうと見ていたわけだが、まさにその通りになってきている。もちろん消費税の引き上げも原子力政策もTPPも国民生活に密着した重大な問題である。更に集団的自衛権を行使しないという歴代内閣の統一見解をひっくり返すことによって、日本の将来における国際的な立場、信頼を失い、国民生活が平和に保たれるかどうかという最も大切なことが覆されてしまう危険性が極めて強くなってきたと思う。

     解釈改憲は絶対にやるべきではないと思う。憲法に不備があったり、時代の要請に合わなくなっている部分があるように、憲法と言えども絶対不変のものではないと私は主張してきた。そして憲法は国のあらゆる法律の基になるものであるが、その最も大切な基本法を変えるということも想定しているから改正条項も設けられているのである。

     安倍政権は憲法改正の手続きを整備する為に、国民投票法の成立を急いでいる。 手続きとしては正しいと思う。憲法が絶対不変のものではないということからすれば、堂々と憲法改正を国民に呼びかけて法律的な手続きに沿って物事を進めていけばよいのであって、時の内閣が自分達の都合で憲法の条文の解釈を変え、その新しい解釈に基づいて関連の法律を直していくということが許されることになると、様々な分野で何でもありみたいなことになり、法治国家の基になっている憲法が骨抜きになってしまう。そしてその結果、立憲主義が崩れることになる。政府方針の原案は、日本版NSCと言われる国家安全保障会議の事務局である国家安全保障局がまとめるらしい。 安保法制懇の報告がまとまるのが恐らく5月の連休明けになるとすれば、その後の手続きを考えると閣議決定は夏以降になるとの見通しである。

     与党の自民党は「安全保障法制整備推進本部」を設置して、既に何回か会合を開いているが、今の自民党の空気は集団的自衛権の行使に断固として反対するという空気ではない。せいぜいあるのは集団的自衛権の行使に何らかの歯止めをかけておく必要があるという程度の議論なのである。一方で連立与党の公明党は、平和の党という原点があるのだから慎重な考えを表明しているのは当然のことだと思う。ここでその原点を見失い、安易な妥協をしたら、連立政権をつくっている意義を失うことになってしまうと思う。

     先般、自民党の高村正彦副総裁が砂川判決を根拠にして集団的自衛権の容認論を打ち出した。1959年12月にいわゆる「砂川事件」についての最高裁判決が出ている。自衛権を憲法9条は否定しているものではないという判断を判決として示し、その憲法9条で禁止している戦力は日本が独自に管理、運営する戦力のことであって、外国であるアメリカ軍の駐留を禁止しているわけではないというような趣旨を述べている。しかしながらごく普通に憲法9条を読めば、そこから自衛権の保持、個別的自衛権ばかりではなく集団的自衛権を持つというようなことは、どう解釈しても導き出せないと私は思っている。砂川判決というのは今から55年前、当時の特別な状況下での判決なのである。1960年(昭和35年)に日米安全保障条約を改訂し、いわゆる安保騒動という大混乱が起きた。その日米安保条約の改訂作業を進めている時に日米安保が憲法違反ということになったら、アメリカとしても大変なことになる。どうしても日米安全保障条約は憲法が認めているという結論を出したかった背景がある。

     当時駐日米国大使だったダグラス・マッカーサー2世が、藤山愛一郎外務大臣に会ってアメリカ側の考えを伝えた。更に私自身も驚いたことなのだが、当時の田中耕太郎最高裁長官にマッカーサー大使が密かに会ってアメリカの考えを伝え、その時に田中長官は裁判日程や裁判見通しについて話をし、判決の方向も示唆したという。このように砂川判決は猛烈なアメリカの外交圧力の下に出された判決であるということが、最近になってアメリカ側の資料で明らかになった。そういうことを考えてみれば、砂川判決を根拠にするということはかなり無理があると思う。ここは与党として慎重な判断をしないと国の将来を誤ることになってしまう。私はそのことに非常に危機感を持っている。

     自民党の石破幹事長は、集団的自衛権を行使する為には地球の裏側まで行ってもいいというようなことを言っているけれど、これは言語道断だと思う。(続く)

    選挙制度改革について。

    2014年4月4日(金)

    カテゴリー» 政治レポート

     選挙制度改革が待ったなしの状況になってきている。各党間で話し合ってもそれぞれ思惑が違うので合意ができず、結局第三者機関で審議をお願いするようになったようだ。有識者と言われる方々はそれぞれ立派な方だと思うし、それぞれの考えがあると思うが、必ずしも選挙の実態をよく知っている方ばかりとは言えない。選挙制度は民主政治の根幹に関わってくるといった観点からしっかりと議論して結論を出してほしいと思う。

     議会政治は国民の多種多様な意見をできるだけ政治の場に反映させていく為のシステムとして作られたわけで、直接民主政治の危うさがあるから完全な仕組みではないけれど、議会政治、代議政治がベターだということで今日まで多くの国々で採用してきている。

     議会政治を健全に維持していく為には、多種多様な意見を闘わせることが大事なのは言うまでもないが、最後は結論を出さなくてはならないから多数決によって決められる。ただ最初から結論ありきみたいなことになると議会が形骸化してしまうことになる。予見力、先見性を持った意見というのは最初から多数の意見であるはずがないわけで、常に少数の人達の否定してはいけないような素晴らしい意見は存在している。それだけにそのような少数意見を尊重するという原理は多数決の原理と並んで重要なことである。少数意見を多数意見に高めていく過程を議会政治においては大切にしなくてはならない。そのような議論が活発に行われれば議会が活性化するし、国民にとっても非常に関心が深まってくる。

     そういった本質的なことを考えた時に、選挙制度は日本の場合にはあくまでも二院制であるべきだと思う。戦後、現行憲法の素案がアメリカ側で作られ、一院制を採ろうとしていたのを日本側が粘り強く働きかけた結果として二院制が実現した。 衆議院と参議院が同じ性格のものになってしまったのでは二院制を採っている意味がない。それこそ税金の無駄遣いだとか時間の無駄じゃないかと言われるのは当然のことだと思う。

     議院内閣制を採っている以上、衆議院はどうしても政党政治、各政党の利害がぶつかり合う場になるので、そこで国民の声や立場が二の次になってしまうことはよくある。そういった政党政治の弱点を補完するのが参議院の役割である。だから参議院はその成り立ちから基本的に政党化してはいけないと言える。それを政党化させてしまったことが参議院の権威を著しく低下させることになったし、参議院不要論が出てくる原因にもなっている。

     そしていわゆるねじれが問題だと言われるようになったのも参議院が政党化したからである。今、政権政党の自民党や公明党は昨年の参議院選挙の結果によってねじれが解消したと思っているかもしれないが、本来ねじれというのは存在しないはずなのである。参議院は全く違う性格のものだったはずである。

     参議院の本来の役割は、衆議院の政党政治の行き過ぎを国民や各々の地域の立場に立って是正することにある。 本来は地域代表と職能・職域代表によって構成されるというのが参議院の成り立ちだったはずである。それが今、全く衆議院と同じようになってしまっている。参議院は政党の代表である前に国民の代表でなくてはいけない。また人口比例代表で構成されるべきだはないと私は考える。

     従って選挙区で選ばれる人達は47都道府県一律定数2でよいと思っている。これは地域を代表しているという考え方であり、アメリカの上院も各州の代表という考え方で構成されている。アメリカは下院議員が435人、人口の多い州は定数が多く、人口が少ない州は定数が少ない。一方、上院は人口が多い州でも少ない州でも定数2名、50州で100人しかいないし、そもそも比例代表という考え方はない。まさに地域の代表という立場で 合衆国全体のことを議論するので上院の権威は非常に高いものがある。しかも任期も上院の方が長く、下院は2年ごとに選挙、選挙で追いまくられる。日本のように解散はないけれど、任期は短いのでしょっちゅう選挙ということになる。一方の上院は6年という長い任期を与えられて、じっくり腰を落ち着けて合衆国全体の政策に取り組める。しかも外交については下院以上の力を持っており、条約の締結や政府高官の任命についての承認権がある。

     日本の場合も最初は地域代表という考え方があったのだから、それからすればアメリカの上院と同じように、人口の多いところに多数の議席を与える考え方は採るべきではない。47都道府県一律定数2であれば、それだけで定数の大幅削減ができる。また選挙区の候補者が政党の推薦を受けることは認めたとしても、政党には入らずに無所属でいるべきである。更に職域・職能代表という考え方があるからそれはそれで残していいと思うが、比例区で当選した人も当選したら無所属になるべきだと思っている。やはり政党から離れていかないと参議院の意味はなくなってくる。

     今、衆議院でも参議院でも議長や副議長になると党籍を離脱する習慣が定着している。党に拘束されない院全体の運営を公平な立場で考えるからだが、参議院は議長、副議長だけでなく議員全員が政党の束縛から離れて国民の立場に立って行動すべきだと思う。そのことが逆に参議院の権威を高めることになる。そのかわり政党に入っていない無所属議員なので政府に入ることは禁ずるべきである。従って政務官、副大臣、大臣等にはなれない。もしなる場合には議員を辞職して内閣に入らなくてはいけないようにすべきだ。そうすれば参議院はまさに立法府としての性格が明確になってくる。法律を作ったり直したりすることが本来立法府の一番大きな仕事だが、今は議員提出の法案よりも遥かに内閣提出の法案の方が多い。内閣提出の法案を通す為の単なる機関になってしまっている。もちろん与党の場合には、議会に法案を提出する前に政府と与党との法案の中身のすり合わせを行う慣習が議院内閣制という建前からも行われていることは事実だが、 法律を作ったり直したりするのは立法府の仕事なのだということをもっと明確にすべきなのである。その為には立法機能も強化しなくてはいけない。特に参議院の調査室、事務局スタッフをもっと充実させなくてはいけない。それは決して税金の無駄遣いではない。本来の参議院の役割を取り戻すということからすれば、国民の理解を得られるはずだと思う。

     選挙制度改革というのはあくまでも衆参両院一体でやるべきで、その時に衆参の役割を明確にすることが最も大切なことである。最近の議論はメディアも含めて皆人口比例の考え方になってしまっている。1票の票の重さばかりを強調している。定数是正が最優先だとメディアも評論家も学者も大騒ぎするわけだが、その定数是正をする為の根拠はあくまでも人口になっている。

     私は有権者数がいくら多くても、各種の選挙で半分以上の人が棄権してしまうのが当たり前のような地域が、果たしてどれだけの声を出す気があるのかということも踏まえて考えるべきだと思う。先般の大阪市長選挙にしても東京都知事選挙にしても投票率は極めて低かった。更に最近の国政選挙における大都市の投票率と比べると過疎地や離島の投票率は遥かに高い。政治的な力を求めている地域は生活が政治に密着しているわけで、何とか自分達の声を取り入れてほしいという悲痛な叫びが1票の中に込められている。それを人口の少ないところだからと言って無視してしまうのでは健全な民主政治は実現できない。だから例えば人口の多少に関わらず過去数回の国政選挙の平均投票率を取って投票人口を出し、その投票人口で比較してみるということも議論する必要があるのではないかと思う。このあたりも定数是正の議論の中に一つの大きな要素として入れていってほしいと思う。

     少々次元の違う話になるが、小泉政権以後、国づくりの為に不可欠な国土政策が全く表に出なくなったばかりか、国土政策の中にも経済の論理が持ち込まれるようになってしまった。従って人口の多い地域をもっと発展させるという政策しか出てこない。人口の少ないところは切り捨ててもいいと言わんばかりの政策が出てくる。バランスの取れた国土づくりという考え方が国土政策の基本だったはずなのに、小泉・竹中政治以降その理念が間違いだというようにされてしまった。国土政策に経済の論理を持ち込んだら格差が拡大するのは当然のことで、現実にそうなってしまっている。人の少ないところは切り捨ててしまっていいじゃないか、そういうところに余計なお金をつぎ込む必要はないじゃないかという考え方では益々一極集中が進み、国土のバランスが崩れてしまう。首都圏や三大都市圏に人口が益々集中して、モノもカネも情報もすべて偏ってしまう。政治家がもっと日本全体をバランスよくしていこうという考え方を持っているのならよいが、残念ながらその人達が皆経済の論理に呑まれてしまっている。

     過疎地や離島に暮らしている人達は、やはり「おかしい。」と思っているのだが、その声が小さな声として葬られてしまう。人口が減っていくと議席が減らされてくるから当然声は小さくなる。人口の多いところに定数を増やせということになれば益々人口の多い地域の声が大きくなって、人口の少ない地域の声や意見はほとんど表に現れなくなる。これでは益々日本が歪んだ国になってしまう。

     民主政治、議会政治の基本をもう一度よく考えた上で選挙制度改革に取り組んでほしいと思う。

    議会政治の危機

    2014年2月7日(金)

    カテゴリー» 政治レポート

     東京都知事選がまもなく投開票日を迎える。誰が勝つかはわからないにしても、突如として小泉元首相が「脱原発」だけをテーマに細川護熙氏を擁立して選挙を戦っている。一方、大阪市の橋下徹市長は、大阪都構想が一向に前に進まないということで自ら辞職し、再び都構想をテーマにして市長選挙をやろうとしている。この二つのことを見て私が非常に心配しているのは、議会政治が役に立たないので自分がこうだと思うテーマを捉えて、直接国民や住民に呼びかけるという手法をとっていることである。 

     小泉さん自身はこの手法で一度成功したと思っている。2005年、衆議院の解散総選挙を断行して郵政民営化を強引に推進した。当時小泉さんを支持した国民は十分な情報を得られないまま、小泉さん独特のパフォーマンスにメディアも協力して、それに乗せられてしまったわけだが、結果を見れば決して民営化が成功だったとは言えない。小泉さんや竹中さんは民営化が中途半端だからうまくいかないと言うかもしれないが、当時民営化を推進した自民党や公明党を含めて超党派で民営化見直しが行われたことを考えてみれば、決して小泉さんが正しかったとは言えない。橋下氏の場合でも議会が思う通りに進まない、大阪都構想が他党の反対で行き詰まっているからと、出直し選挙で事態打開を図ろうとする。こういうやり方を認めてしまうと議会政治が益々意味のないものになってしまう。

      IT化が進んでおり、それこそ重要なテーマについてはすべて国民投票で決めようということも技術的には不可能ではない。しかしその国民投票の結果、判断が間違っていたという時に一体誰が責任を取るのか。国民投票の恐さは結局自分に返ってくる話であって、責任は国民自らが取らざるを得ない。判断の誤りによって取り返しのつかないこともある。だから議会制民主政治が最も間違いの少ない政治のやり方だということで、現在多くの国が採用しているのである。過去の歴史を振り返ってみても、独裁政治の危険性については色々な国や民族が長い歴史を通じて学んできているはずだ。独裁政治は結局国民を苦しめることになる。独裁者の権力や立場を守ることを国民の利益、国益に優先させてしまうから独裁政権は哀れな結末を迎えることになるのである。

      政治の本質を考えてみれば、将来を予見できるずば抜けた賢人、哲人が政治を行えば独裁政治の方がより早く政策を実現できるということなのだろうが、所詮は人間だから必ずそういう立場に立つと私欲が出てくる。権力を握った時は立派な考えを持って立派なことを言うかもしれないが、時が経つと決してそうはなってこない。そういう失敗を繰り返してきたことの反省の上に議会制民主政治が生まれ、その後最も間違いの少ない仕組みではないのかということで定着してきたのである。ところが今の日本においては、議会政治が全く形骸化しつつある。国政もそうだし、地方議会もそういうところが多くなってきているように思う。議会政治の何が大切なのか、何の為に生まれてどういう理由で定着してきたのか、議会に席を置く人達はもう一度真剣に考えてほしいと思う。

      直近の衆議院選挙、参議院選挙で自民党が圧倒的な議席を得た。得票数においては決して圧倒的ではないが、選挙制度に恵まれて絶対多数を取っている。今、政治の動きを見ていると、マスコミ等でも言われているように「政高党低」、内閣の力が非常に強くなっているように見える。安倍首相の人気の高さもあるし、またそれを支持する大手メディア、その人気を利用しようとしている政治勢力などが安倍内閣を支えている。その人気の前に安倍内閣を作ったはずの与党である自民党、公明党が全く内閣の言いなりになってしまっている。公明党も結党の時を振り返れば、平和を守り、庶民の生活を守るということを大きな理念としてスタートしたはずなのに、理念や政策が違うからといって政権を離れるつもりはないということをリーダーが言うに至っては、何の為の政党なのかと言わざるを得ない。何としても連立を維持して権力の座から離れたくないという思いが優先してしまっていることの表れだと思う。

     更に問題なのは最大与党の自民党である。重要な政策について党内の議論を積み重ね、それが内閣の政策と違うところがあれば堂々と内閣に物を言って政策を正していくことが与党の責任のはずだ。かつての自民党はそういうことをやってきたからこそ長い間、国民から支持されてきたのである。党内に多様な議論があって、その中で最大公約数としての党の意見をまとめてきたからバランスのよい政策が実現できた。一部にはいつも同じことをやっているじゃないかとかスピード感がないじゃないかとか、そういう意見もあったかもしれないが、そういう自民党に対して多くの国民が安心感を持っていたから長く政権が維持できたわけである。

      議院内閣制の下では、与党と内閣がうまく調和していくことが大切なのである。調和というのは内閣の言う通りに党が従うということではないわけで、党の意見を内閣に対しても堂々と言う、内閣も堂々と政策を作っていく、それがうまくバランスを取って進んでいかないと議院内閣制は機能しない。党の意見が内閣の意見と全く食い違っているような時には、本来であれば立法府における与党の責任者である幹事長や政調会長が官邸に乗り込んで、総理や官房長官に党の意見をきちんと主張し、政策を修正したりしていくべきなのだ。

      三権分立の下で議院内閣制を守っていくことは、日本の憲法に明記されている。与党ばかりではなく、立法府そのものを無視するようなやり方を小泉内閣の時は当たり前のように行っていた。小泉さんは自分が国民投票で選ばれたような意識があり、国民が圧倒的に自分を支持してくれているから自民党の総裁に選ばれ、更に国会において与党の力により指名されて総理大臣になった、だから自分が総理として実行しようとしていることを議会における与党自民党が聞くのは当然だというようなやり方で、強引に政策を進めてきたわけである。それに対して与党の中から「けしからん。」と意見を言っていたのは郵政民営化に反対した我々ぐらいだったわけで、他の人達は小泉さんのやり方に従ってしまった。

      立法府は議院内閣制の下では内閣を作り出した生みの親であり、それを無視し、立法府である国会に対して行政権の長が命令を下すようなやり方は三権分立、議院内閣制の基本から言っても許されないことである。だから議会のことは議会に任せろと、衆参両院の議長はもっと勇気と見識を持って総理や官房長官に意見を言うべきである。ところが小泉内閣以降、誰も内閣に厳しいことを言おうとしない。そういうことを繰り返していると、議会は内閣の従属物であり、地方議会は首長の従属物であるかのような印象を国民に与えてしまう。益々議会を形骸化させてしまうことになる。議会で色々な議論が行われてもそれは単なる手続きであって、結果は最初から決まっているというようなことになってしまう。議会が形骸化すればするほど議会に無駄な日数やお金をかけることはない。それは国費や税金の無駄遣いだということになってしまう。国民の為に有益な議論が議会で行われるその前提として、議院内閣制や議会政治とは一体何なのか、何の為にあるのか、どうして生まれてきたのかという原点を議会に席を置く者はもう一度真剣に考えないといけないと思う。

      そもそも直接民主政治の失敗を繰り返したことの反省から代議政治、議会政治が生まれたのに、その代議政治、議会政治がうまく機能しない、国民の為にならないと国民が思うようになってくると、大事なことはすべて国民投票で決めようという直接民主政治に戻ってしまう。そして選挙はいわゆるシングル・イシュー、一つの政策とか一つの課題だけを争点に行われるようになってしまう。これは非常に危ないことである。

      社会が複雑になって、国民の意見や生活様式も多様化してくると、あらゆる政策について多くの人が正しい情報を得て判断するのは不可能である。だから自らの一生の仕事として専門的に勉強し、政治に使命感を持って取り組む人達に判断を委ねようというのが代議政治、議会政治が生まれた所以である。もちろん議員も国民の選挙で選ばれるのだから、最終的な判断は主権者である国民が行っている。その議会で議論されるあらゆる政策について国民がすべて知ることはなかなか難しい。政治家が政策について勉強を深めていくことが大切であることは当然だが、それ以上に代議政治、議会政治というのは何なのか、どうして生まれたのかという原点を忘れないことが大切で、それを見失ってしまうと結局自ら信頼を失うことになってしまう。今の傾向は議会政治にとって極めて危ないことではないだろうか。

      国民投票法についても色々な議論が行われている。これは憲法の改正に必要な手続きである国民投票に関して規定する法律であるはずだが、その国民投票法をもっと広げて、憲法だけでなく国政上の大きなテーマについても国民投票が行われるようにしたいと考えている人達もいるようだ。しかしこれも代議政治、議会政治の否定というか直接民主政治への回帰をもたらすことになりかねない。従ってこのことについても慎重に対応すべきだと思う。

    2013年を振り返って。

    2013年12月20日(金)

    カテゴリー» 政治レポート

     安倍内閣が昨年暮れに発足してちょうど1年になる。特定秘密保護法の成立過程において支持率が急速に低下したものの、依然として50%を超える高い支持率を維持しており、安倍首相はますます自信を深めているようだ。

     さて、この1年を振り返ってみると、今年は今上天皇が即位されて四半世紀となる節目の年でもあった。伊勢神宮の20年に一度の遷宮、私の地元の出雲大社では60年に一度の遷宮が行われた。更には富士山がユネスコの自然遺産に登録され、また2020年の東京五輪開催が決定した。こういう喜ばしいニュースがあった一方で、日本をめぐる国際情勢は極めて不穏なまま年を越そうとしている。日中関係は尖閣の問題をはじめとしてギクシャクしているし、日韓関係はそれ以上に深刻な状態になっている。一方、国内の問題、特に経済、財政、金融をめぐって安倍内閣、政府はいわゆるアベノミクスが効果を上げているように宣伝しているが、私は必ずしもそうは思わない。アベノミクスの成否は今後の動き次第であろう。

     日銀を中心にして安倍首相が主導し、前例のないような金融の量的緩和に踏み切ったことが株高と円安の原因になったかのように思っている人が多いと思う。しかし実際にはそうではなく、もともとここ数十年のドルと円との関係を見ていると、アメリカの長期金利の動向に連動しているわけで、既に円安ドル高の流れが始まりつつあった時に安倍首相が政権の座についてアベノミクスを打ち出し、円安ドル高の流れに上手く乗ったということである。さも自分達の政策が正しかったというような言い方をしているが、私は必ずしもそうは思わない。

     小泉政権当時、竹中平蔵氏が主導して量的金融緩和策を行ったことがあったが、それと同じことをもっと大きな規模でやっているのが今の状況である。金融の量的緩和は日本ばかりでなくアメリカもやっていると言うだろうが、市場関係者の間ではアメリカの量的緩和がいつ縮小に向かうのか、そろそろ縮小の方向に向かっていかないと大変なことになると注目していたところ、12月18日(水)、FRBが来年1月からの量的緩和縮小を決定し、金融緩和の「出口」に向かって動き出した。一方、日本の量的緩和はいつやめるのかということだが、今の状況ではなかなか「出口」が見つからないのではないか。

     安倍首相は、前例のない思い切った金融緩和と機動的な財政出動、そして民間の投資を喚起する成長戦略をアベノミクスの「三本の矢」と言っているが、肝心の第三の矢がどういうものになるのか、なかなか具体的に打ち出されない。景気が底割れするようなことがあってはいけないということで、年内に5兆円規模の経済対策をまとめると言っていたし、既に来年度の予算編成作業に入っているが、財政規模としておそらく96兆円を超える中、税収見通しが若干増えて50兆円を超えるというものの、依然として40数兆円の新規国債を発行せざるを得ない状況になっている。

     日銀の国債保有残高は今どんどん膨らんでおり、国債全体の17%以上を保有している。ゆうちょ銀行を含めた中小企業金融機関の国債保有残高よりも上回っている。日銀が市中から国債をどんどん買っていくと、民間金融機関としては日銀がそこまで買ってくれるのであればと、他に運用先を見つけようとする。しかし国内ではなかなか運用先が見つからない。だから金融機関は本店から海外の支店にお金を回して金利稼ぎをする、海外の支店はそれをヘッジファンド等に貸し出して利ざやを稼ぐ。サブプライムローンの問題が表面化した時やリーマン・ショックの時に一部で言われていたことだが、日本のお金がヘッジファンドに回って、ヘッジファンドのお金でああいった混乱が起こったという見方もあった。今回もまたそういう動きが顕在化してくるのではないかと私は心配している。

     安倍政権は小泉政権の路線と同じ路線を進んでいるが、アメリカにとってはむしろ小泉政権以上に都合のよい政権になってきているのではないだろうか。アメリカは経済は多少よくなってきていると言いながら、財政は事実上破綻しているような状況である。いわゆる「財政の崖」という出来事が何度かあり、国債発行の法定上限を引き上げないとアメリカの財政は破綻してしまうということで、一時政府の行政機関が機能停止に陥る寸前まで行き、議会と大統領が厳しく対立した中でようやく妥協した。ただ年が明ければまた同じような事態が出てくることになろう。アメリカとしては結局頼る先がほとんどないので、日本のお金を自分の懐として使うような仕組みを考えているように私には見える。だが国内にあるお金を海外で使われては元も子もない。国内で回す知恵を政治家は出さなくてはいけないが、どうも今の政治家を見ていると、財務省にとってすごくコントロールしやすい人達になっているという感じがする。日本のお金が日本国内で回るような環境を作らない限り、日本の経済は本格的によくなることはないだろう。

     今、大企業の経営者の方々に話を伺うと「日本の市場を考えていたら商売にならない。日本には投資先がほとんどないので、アジア市場全体を国内の市場と考えてそこへ積極的に投資をしていく。事業展開も海外に移していく。そういうことをやっていかない限り、収益を求めるのは難しい。」と言われる方が多い。確かに一部の大企業では潤沢な利益を得て、内部留保を積み増している。ところが従業員の所得には還元していない。安倍首相は従業員の給与をもう少し上げるようにと経営者に要請しているが、これは政府が命令してできるようなことではない。企業経営者の方々がどういう判断をされるのかにかかっているのである。ただ日本の大企業の経営がアメリカ型にどんどん変わってきているので、まず株主の利益を最優先し、次に経営者の利益を優先し、最後に従業員の所得を考える。大手の優良企業約30社を見ても、ここ20年くらいの間に役員の所得は倍になっているが、従業員の所得は逆にマイナスになっている。明らかにアメリカ型の経営手法になってきているのである。

     昨年の衆議院選挙で自民党が圧勝し、今年の参議院選挙でまた自民党が圧勝した。参議院選挙まではならし運転というか様子見をしていた安倍政権だが、参議院選挙で圧勝してからいよいよ政権の本質が現れてきたように感じる。消費税の引き上げ決定やTPP交渉参加、また原発を再稼働の方向に進めようとしているし、原発の技術を海外に輸出しようとしている、更には国家安全保障会議を作り、それと表裏一体となっている特定秘密保護法を強引に成立させた。そうした政権運営を見ていると、これは危ないと思う。

     来年度の税制改正をめぐって自民党税調でいろんな議論もあったが、消費税については軽減税率の導入を強く主張していた公明党を説得して曖昧にしてしまい、再来年、消費税を10%に引き上げた後に考えようと先延ばしにしてしまった。財政当局は消費税を引き上げる理由として、財政健全化の為に消費税を上げざるを得ないと言い、また消費税は最も公平・中立な税制だと言う。更に消費税を上げないと社会保障が持たないとも言う。ところが現実に1989年に消費税を導入してから今日まで財政が健全化の方向に向かっただろうか。社会保障の財源が安定しただろうか。全く逆である。益々悪くなっているのである。

     私はこのコラムでも再三述べてきているように、消費税を目的税に変える、外為会計の差益を思い切って中間所得層の所得税減税の財源に充てる、利子が付かない代わりに相続税・贈与税を免除する「無利子非課税国債」を発行する、そういうことを実行すれば日本の経済、財政、金融は変わってくると思う。だが残念ながら今の自民党からはそういう声は出てこない。かつての自民党は党内で理念や政策の激しい議論が行われていたが、今は下手な議論を仕掛けて執行部から睨まれたくはないと、誰も執行部に対して果敢な論争を挑んでいくというような空気が見えない。一方、野党に期待しても今のままではとても難しい。

     自由主義経済を守っていくことは国民のコンセンサスになっている。それを前提として大企業や富裕層をより豊かにしてアメリカ型の競争社会に持っていくことが日本の為になると思っている人達が、小泉路線を継承する安倍内閣を強く支持している。私は相容れないが、それも一つの考え方であろう。しかしそれだけでは困るので、今こそかつての自民党政権が作り上げた一億総中流社会の再構築を目指そうとする政治勢力と、それを支持する国民の力が必要なのだが、そのような動きが全く出てこないことに非常な危機感を覚える。

     外交、安全保障ではアメリカに対する依存度が益々高まってきており、日中関係や日韓関係が厳しくなればなるほど一般の世論としてアメリカの力を借りないと日本はやっていけない、アメリカと一体性を強めていくしかないという考え方が大きくなってきていると思う。これもまた非常に恐ろしいことである。アメリカと協調していくのは当然のことだが、もう少しアメリカに対して言うべきことは言わなくてはいけないだろう。安倍首相がやっていることで唯一、私が賛成するのはASEAN外交である。ASEANの国々との関係もここで再構築していく必要がある。日本に対する期待も非常に大きいものがあるので、安倍首相が積極的にそういう方向に向かっていくことは大変結構なことだと思う。

     来年は外交、安全保障でも一波乱二波乱あると思う。中国とアメリカとの関係も色々動きが出てくるだろう。また経済、財政、金融でもかなり波乱要因があると思っている。安倍内閣は絶対安泰だと思っているかもしれないが、私は必ずしもそうではなく意外に脆い面もあるのではないかと見ている。