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    安倍政権の陰り

    2015年10月23日(金)

     安倍首相は安全保障関連法の成立以降、経済のことばかり言っているが、アベノミクスなるものもいよいよ破綻寸前のような状況になってきていると私は思う。一部の大企業が収益を上げているのは間違いないし、株高で潤っている人達がいるのも間違いない。ただ株式市場だってどこでどう動くかわからない。まだ円安が続いているように見えるが、円−ドルの関係、円−ユーロの関係だけを見ていると円安になっているが、その他の国の通貨と円との関係を見ているともう既に円高に向かっている。今の流れが変わってくると政府や日銀がどんなに円安に誘導しようとしても限界が来るだろう。

     安倍首相は最近、「一億総活躍社会」を目指すと言うが、何を言おうとしているのかさっぱりわからない。そんなことよりも私が以前から主張しているように「一億総中流社会」を再構築する方がよほどイメージとしてハッキリしていると思う。一方では2020年度にGDP600兆円を実現させると表明している。名目で3%程度の経済成長が続けば可能だと言っているが、どうやって3%成長に持っていくのかその手順が全く見えない。やはり個人消費が安定的に伸びていくことにならなければGDPが大きくなるはずがない。その為に具体的に何をやるのかが明確になってこなければいけない。格差がどんどん広がって、しかも地方が疲弊している状況の中で「一億総活躍社会」と言われてもピンと来ない。

     抽象的なことばかり言って日本をどういう国にするのかが明確に示されていないが、その一方でアメリカの言うことだけは聞いている。TPPにしても原発再稼働にしても、CSIS(戦略国際問題研究所)のジャパンハンドラーズと言われるような人達が当初から日本に対して要求していることをシナリオ通りに進めている。リチャード・アーミテージ元米国務副長官とジョセフ・ナイ元米国防次官補が3年前に出した「第3次アーミテージ・ナイリポート」の中で書かれたことをそのままやっているだけではないかと先の国会審議でも指摘されていたが、まさにそういうことである。

     更に国際情勢を見ていくと、アメリカの力が落ちていることは間違いない。反面、ロシアのプーチンと中国の習近平の2人が次の覇権というか、自分達を中心にした世界をつくるという野心がはっきり見えてきている。中国とロシアとこれからどう付き合っていくかも日本にとって大きな問題である。アメリカと一緒になっていればよいということではもはや解決できない。台湾、ASEAN、インドなどアジアの自由主義国との関係をもっと強めて信頼関係を構築し、中国に対してもロシアに対しても、またアメリカに対しても堂々と物が言えるようなアジアの一つのまとまりをつくっていくことが大事である。これは日本一国だけでできるわけではない。アジアにおいて同じ自由主義、民主主義を基本とする国と連携を強めていくことが急務ではなかろうか。

     色々考えてみると今の安倍内閣、自民党がこれからどうなってしまうのか不安ばかりが強くなる。与党の国会議員も安倍内閣をサポートしてさえいればよいというのではなく、激動する国際情勢をしっかり見極め、過去の歴史に学び、新しい方向を見出していかなくてはならない時だと思う。

    安全保障関連法について。

    2015年10月6日(火)

     9月27日(日)に閉会した通常国会において、与党は例のないような大幅な会期延長を行い、安倍内閣としての最大の懸案だった安全保障関連法を強引に成立させてしまった。私は以前のレポートでも述べているが、明らかに憲法に抵触する集団的自衛権の行使を容認する道を開いてしまった。多くの憲法学者がそれは憲法違反だと指摘していることに対して、憲法の解釈がどうなろうと、国民の生活に対して責任を負っているのは学者ではなく自分達政治家だと発言するに至っては、権力のある者の驕りや慢心という以前に立憲国家としての基本を最初から間違えていると言わざるを得ない。戦後の70年の政権運営の上で取り返しのつかない汚点を残してしまったと思う。

     憲法に違反しようがしまいが、現実の世界や国際情勢はどんどん変化している、そういう中で国民生活を守る為には憲法よりも自分達の考え方の方が正しいのだというような主張である。いわゆる解釈改憲というか、憲法改正をしないで政府が勝手に従来の法解釈を変えてしまうという手法が当たり前のようになったら非常に恐ろしいことになる。法治国家としての国の基本法である憲法がないがしろにされてしまうことになると、国家の仕組みそのものが成り立たなくなってくる。

     安倍首相や与党幹部は、審議時間を長くとったということばかり強調するけれども、どんなに審議時間を長くとっても基本的に間違ったことをやっているわけだから、国民の理解が得られるはずがない。首相自身も国民の理解が得られていないということは認めながらも、いずれ理解される時が来るだろうと言っている。岸内閣の日米安保改定の時のことを引き合いに出して、当時は大変な騒ぎで反対の人が多かったけれども、時代が経って間違いではなかったことが認められたということも述べている。しかしあの時は憲法に違反することをやったわけではないので、それを引き合いに出すこと自体間違っている。

     今回の安全保障関連法案については、特定の組織が反対運動を展開したというのではなく、多種多様なそれぞれの立場から個人的に容認できないという人達の自主的な動きが広がって、一つの反対運動になっていった。組織的な反対運動ではないからいずれ収まるだろうと甘く見ているのかもしれないが、民主政治を否定する行為を政権与党が行ったのだから、そのことに対して間違いはあくまでも間違いであるという主張をこれからも諦めることなく続けていかなくてはいけない。

     安倍首相は安全保障関連法案がまとまってもいない段階でアメリカに行って、スピーチをして成立を約束した。そこから既に間違えている。今回の法案が通ったことをアメリカが歓迎するのは当然のことで、アメリカのアジア戦略や世界戦略に日本を巻き込んで自由に使うという道が開かれたと言えるだろう。自衛隊の海外における活動範囲が広がり、アメリカの総合的な国力がどんどん落ちてきている中で、それを補完する役割を日本が背負わされることになってくる。

     それと連動した話だが、10月1日(木)に防衛装備庁という防衛省の外局がスタートした。武器の輸出・購入あるいは兵器の開発及び他国との共同開発などの中心的な役割を担う。これはまさに安全保障関連法がどういう背景の下に進められてきたかを物語っている。日本が長い間守ってきた「武器輸出三原則」も既に変更されてしまったが、紛争当事国に対して武器の輸出はしないとしても、輸出した相手の国がそれをまたその国の判断で紛争国に譲り渡すようなことは十分あり得る。まさに世界の軍拡競争の一翼を担うようなことになりかねない。平和国家としてこの70年守ってきたことがガラガラと音を立てて崩れていくような気がしてならない。

     「積極的平和主義」と言うけれど、何のことやら訳がわからない。平和を守る為に今まで以上に積極的な役割を果たしていこうというのであるならば、何も世界の警察官としての役割を果たせなくなったアメリカの軍事戦略に協力し、その補完的な役割を果たすことが最善の選択ではない。私は以前から述べてきたように、日本を敵視しない国を多くしていくという平和外交の展開の方が遥かに国民を守ることにつながってくると思う。

     ホルムズ海峡の魚雷の掃海作業などの支援にしても、公海上で同盟国の戦艦を守るというようなことにしても、始めてしまったら限度がないのである。安倍首相は戦争から国や国民を守る為にやっているのだと強弁を続ける。日本から他国に戦争を仕掛けるようなことはあり得ない、戦争を仕掛ける為の法律ではないというのはその通りだけれど、巻き込まれなくてもいい戦争に巻き込まれてくる危険性が大きくなったことは間違いない。だから安全保障関連法案に反対した人達は「戦争法案」という呼び方をしていたわけである。

     法案が通ったからもう仕方がないと諦めてはいけない。やはり間違いは間違いなのだから、皆がその主張を諦めることなく続けていく。そしてできるだけ早く政権を変えることが必要だと思う。来年の参議院選挙で政府与党に大きな打撃を与えることは、民主的な政治手法として当面一番大事なことだと思う。

    今こそ参議院の出番だ!

    2015年7月24日(金)

     安全保障法制については、私が見通していた通りの動きになっている。安倍首相をはじめ安倍政権は、日本の国民の意思よりもアメリカに対する約束を優先させることを最初から実行するつもりでいたとしか思えない。結論先にありきで、後は国会の審議時間を消化していけばいいという、消化試合のような意識で国会の論戦に臨んでいたということだと思う。

     菅官房長官にしてもしきりに審議時間のことを取り上げる。過去の重要法案の審議時間と比べて今回は遥かに上回っているということばかり言うけれど、もともと一本一本が自衛隊法をはじめ非常に重要な法律であるのに、その改正案を無理に10本まとめて1本にしているわけだから、過去の重要法案の審議時間と比較すること自体間違っている。そして何よりも今問われているのは、審議時間のことではなく、多くの人達が憲法違反だと言っているように、内閣の憲法解釈を変えることによって憲法を形骸化していくという、立憲主義の基本に反することを最初からやっていることなのである。

     安倍首相の発言を聞いていると、日本を取り巻く国際環境が変わったのだからその中で国民生活、国民を守っていく為に大きな責任を負っているということをしきりに言う。だからと言って、自分達の判断に憲法を合わせていこうとするのは立憲主義の基本に全く反する。まず憲法を守ることが立憲主義、立憲政治の基本である。憲法の遵守義務について、特に公職にある人はそのことを重く受け止めなければいけない。今の憲法では国際環境の変化の中で国土や国民を守ることが難しいというのであるならば、何度も指摘したことだが、堂々と憲法改正の手続きを踏んで、国民に粘り強く説明、説得をしながらそれを実現させていくべきである。それこそが立憲政治の基本である。

     今回、前例のない大幅な会期延長を行ったが、多くの人達やメディアが指摘しているように参議院で60日経っても結論が出ない場合には、衆議院で再可決をして法案を成立をさせる、いわゆる「60日ルール」を使って成立させる為の日数を見込んで大幅な会期延長をしたのは見え見えである。私に言わせれば、これほど参議院を馬鹿にした話はない。これがまかり通ることになったら、まさに参議院はいらなくなる。参議院は衆議院のカーボンコピーに過ぎないと言われることがあるが、参議院は改めてその役割を問われている。「良識の府」と言われているのは、衆議院が法案の審議で判断を誤ったり、それ以前に憲法に反する判断をした時に、参議院議員が各々の良識を踏まえて、それは間違いであるとして正していく大きな役割が与えられているからである。私はその参議院が衆議院と同じように政党化していることが参議院の自殺行為になっているということを繰り返し述べてきた。参議院議員が自分の所属する政党にとらわれず、一人一人が自らの良識を踏まえ、国民の立場に立って正しい判断をしなくてはいけない重要な時を迎えている。

     安保法制に反対する国会周辺のデモや抗議集会などが今までにない盛り上がりを見せている。ところがそういう人達の行動をたいしたことではないと言わんばかりの発言が安倍内閣から相次いでいる。麻生副首相も先日、国民の大多数が反対しているのならば、自分達のところに反対の意思を伝えるメールや電話がもっと来るはずだが、たいした数ではないと発言していた。またその一方で、安倍首相は安保法制について「国民の理解が十分に得られているとは思わない。」と発言している。そう思っているのならば、国民が十分理解できる段階までしっかりした議論を積み重ね、その上で結論を出すのが筋だと思う。ところが結論が先にありきで、その時は国民の支持を得られていないかもしれないが、年月が経てば国民の理解が進むだろうということを、祖父の岸信介元首相がかつて日米安保条約改定をやった時のことを引き合いに出して述べていた。

     民主政治では多数決によって最終的に結論を得るのは当然のことであるが、その一方において少数意見を尊重するというもう一つの大きな柱がある。正しい少数意見を、議論を積み重ねていく中で多数意見に高めていき、その実現を図ることは議会政治の最も大切なことである。仮に安倍首相の判断が正しいとしても、それが国民の中でまだ少数意見であるのならば何も今急いでやる必要はない。議論を積み重ねていく中で多数意見になるような、堂々とした議論をした上で結論を出すことが議会政治の常道だと思う。安倍首相はそのことについても考え違いをしているのではないだろうか。

     今回の安保法制に反対するデモや抗議行動は、そう簡単に収まるとは思えない。これから参議院の議論が始まって新しい論点が示されたりしてくると、ますます世論は喚起されることになってくると思う。安倍内閣は強気で進んでいるけれども、半面、世論の動向を非常に気にしているように見える。だから新国立競技場の問題も白紙に戻すと言わざるを得なかった。安保法制と新国立競技場の問題を合わせて批判されては敵わない。安保法制は絶対に譲れないけれども、新国立競技場の方は譲ってもいいということで、これ以上支持率を下げない為にこのような判断をしたとしか思えない。それだけ世論に敏感であることは間違いない。経済面では株高と円安によって安倍内閣の支持率が維持されてきたが、それも危うさが見えてきた。このような状況にあって今の時期を外したら、アメリカとの約束が果たせないので何が何でもやってしまおうという動きがますます強まってくるのではなかろうか。

     安倍内閣は今まさに戦後の安全保障政策の大転換をしようとしているが、私はそれが日本や日本の国民にとって有益だという判断には全く賛成できない。どう考えてみても日本の国土や国民の危険性が増すとしか思えない。それを敏感に感じ取っている国民がどんどん増えてきているということだと思う。デモや抗議行動の盛り上がりが衰えることなく、更に広がっていくと安倍政権も衆議院の再議決がやりにくくなってくる。しかし、アメリカと約束したことだから何が何でもやろうとするだろう。それをやらせない為には、主権者である国民が立ち上がる以外に道はない。世論の盛り上がりがもっともっと大きくなってくること、その盛り上がりの中で参議院がしっかりした議論をやって、参議院としての明確な結論を出すことが大事だと思う。そのことが良識の府である参議院の権威を守ることにつながってくる。

     私は今こそ参議院の出番が来たように思う。これからの参議院の審議に期待をしながら見守っていきたい。

    安倍政権は「戦争への道」を歩むな。

    2015年5月18日(月)

     5月14日(木)に安倍内閣が安全保障法制の法案を与党の了承を得た上で閣議決定し、翌15日(金)に国会に提出した。法案の内容について細かいことを言えば限りがないが、その前にまず基本的なことをないがしろにしてしまうことによって法治国家が成り立たなくなることに強い危機感を抱いている。三権分立のあり方、議院内閣制のあり方、それに関連した国会と内閣との関わり方、そして最も大切な憲法とは何なのかということ。そういう基本的なことが全くないがしろにされてきている。私は安倍内閣の暴走を目の当たりにして、もはや法治国家のリーダーとしての見識も常識も失われてしまったのではないかと言わざるを得ない。

     言うまでもないが、安倍首相は日本の行政の責任者なのであって、アメリカの政治の責任者ではない。先日訪米してアメリカの上下両院の合同会議でアメリカを礼賛するような演説を行い、何回にもわたって大きな拍手を受け、大層気持ちが高揚しているようだった。アメリカの上下両院は主権者であるアメリカ国民を代表している議員によって構成されているわけで、その合同会議でこの夏までに安保法制関連法案を成立させるということを言い切った。これはアメリカの国民に約束したことになる。日本の行政の責任者である首相が自分の所属している与党の了承もまだ取れていない、閣議決定もしていない、もちろん国会の審議も全く行われていないという段階で、アメリカの国民の代表である議員を前にして今夏までに法案を成立させると言い切ることは、日本の主権者である国民を全くバカにした話だ。安倍首相はなぜそういうことに気がつかないのか、私には信じられない。

     アメリカは今、経済、財政、金融をはじめ八方ふさがり、すべてが手詰まりの状況にある。特に外交安全保障政策においては思うようにいかない。本年は第二次世界大戦後70年の節目の年だが、アメリカは大戦後次から次へと国外の紛争に介入してきたが、アジアにおいても、また中南米や中東においてもそれがことごとく失敗した。そして今やそのツケがすべてまわってきている状況である。中国が台頭し、ロシアが益々存在感を大きくしてきている中で、アメリカ単独ではどうにもならない状況に陥っている。アメリカは従来から対日戦略を進めるにあたって、日本の経済力を常にコントロールできるようにしながら、日本の富の蓄積は実質的にアメリカが自由に使えるという関係を長い間がかかって作り上げてきた。それに加えて近年は安全保障政策でももっと日本を自由に使おうと考えているのは明白である。

     前回、安倍首相が訪米した時は極めて冷たい扱いをされた。首脳会談は行われたが、歓迎晩餐会も共同記者会見もなかった。ところが今回の訪米では手のひらを返したように、上下両院の合同会議で歴代首相として初めての演説が行われ、共同記者会見があり、歓迎晩餐会も催された。アメリカが今苦しい中で日本を完全に取り込んで、アメリカの国策に協力させようと前回とは180度違う対応をした。それに乗せられたようにアメリカを礼賛するようなことばかり話をすれば、アメリカの議会や政府が喜ぶのは当然である。日本はアジアの国であるのに、その演説からはアジアの近隣の国々に対する配慮が全く感じられなかった。中国や韓国はもとより、第二次世界大戦の時に日本軍によって被害を受けた東南アジアの多くの国々に対する配慮がまずなされるべきだろう。そして何よりも日本の主権者たる国民の代表であるという意識を第一に持つべきだが、演説を聴いていると安倍首相は一体どこの国のリーダーなのかと思ってしまう。

     また昨年7月の集団的自衛権の解釈変更を前提に、まだ安全保障法制が整理されていない段階にも関わらず、法案の成立をアメリカに確約した上で日米安全保障条約のいわゆるガイドラインの見直しも行った。これも国会軽視どころか国会無視、国民無視と言わざるを得ない。首相というのはそこまでの権力を国民から与えられてはいない。権力を縛る為に大きな役割を果たす最高法規である憲法を勝手に解釈して、憲法そのものを改正せず、憲法が予定しないことを解釈変更で平気でやってしまう。このことからしても行政権の長たる資格がないと言われても仕方がない。

     安倍首相にしてみれば、昨年暮れの総選挙で自民党が圧勝し、連立与党の公明党と組んで絶対多数を持っている現状では、どんな法案を出しても最後は数の力で通せるという見通しがあるから解釈変更を平気でやるのだろうが、仮に法案の成立が見通せたとしても、我が国では最高法規である憲法を基にした様々な法律、手続きがあるわけで、その手続きをきちんと踏むことが法治国家として最も大事なことである。自分はこう思う、こうすべきだと思うのなら、その為にきちんと手続きを踏んで、国民に粘り強く説得をしていくことをしなければいけないのに、そういうことを置き去りにして、結果が見えているのだからといったような驕り高ぶりは極めて危険なリーダーの姿勢だと思う。

     今回閣議決定した安全保障法制関連法案は、集団的自衛権を行使できるようにする武力攻撃事態改正法案など10本を束ねた「平和安全法制整備法」と、戦争中の他国軍を後方支援する「国際平和支援法案」に集約したということだが、その中身を見ると政府の解釈によってどうにでもなってしまうことになる。「平和」だとか「国民の安全を守る」といった言葉ばかりが躍るが、実際には全く逆である。安倍首相の言い方だとアメリカと一緒になって、アメリカに協力していれば日本の平和を守れるのだという。しかしながらアメリカは自国の国益を第一に考えるわけで、自国の国益が守られた時に世界の平和が守られたという言い方をする。しかもそのアメリカの国益はそのまま日本の国益ではない。

     集団的自衛権が行使できるという憲法解釈の変更に基づいて今回つくられた法案が国会で成立してしまえば、日本の国民の安全を守る為ということで他国に対する攻撃に対処できるようになり、更には地域を限定しないでどこにでも内閣の思うまま自衛隊を出せることができるようになってしまう。そもそも自衛隊の存在は憲法上明記されていない。憲法9条では、国際紛争を解決する手段としては武力を行使しないとはっきりと謳っている。それをアメリカ側からの強い要請によって、憲法9条は自衛の為の武力行使は禁じていないという憲法解釈に基づいて、警察予備隊という存在として今の自衛隊は発足しているのである。あくまでも専守防衛、日本が直接武力攻撃をされた時に日本の国民と国土を守る為に存在しているのであって、国外に出て行って武力行使をすることは明白な憲法違反である。

     安倍首相は日米安全保障条約を強化して、アメリカと一体化しアメリカの外交安全保障政策に協力をすることが日本の安全を守ることにつながるという信念を持っている。私は全く違う考え方だが、それはそれとしても安倍首相が自分の考えが正しいと思うのなら、法治国家の手続きに則ってまず憲法改正を堂々とはかるべきなのであって、憲法改正をやらずにどんどん拡大解釈をして自分の思ったように進めて世論を誘導するというやり方は、まさに法治国家を自ら崩すことにつながる。

     安倍首相の世代は直接戦争に駆り出されたことのない世代だから、自らの正義を守る為には戦うのは当たり前だと思っているのかもしれないが、戦争というのは決して勇ましいものではない。古今東西、権力者は常に正義の戦いを強調するが、権力者の判断によって起こされた戦争によって、犠牲になり被害者になるのは善良な一般の国民なのである。今、世界各地で起こっている内戦を見ても明らかで、シリアやイラクやソマリアなどから難民が自由を求めて命がけで国外へ脱出している。日本は世界で唯一の被爆国であり、戦争で尊い多くの人命を失い、多大な犠牲を払ったその敗戦の焦土の中から再出発して、平和を守りながら国民の努力により今日の日本を作り上げてきたのである。いかなることがあっても戦争だけは絶対にやってはならない。安倍首相はよく「普通の国になる」とか「積極的平和主義」だとか、さも美しそうな響きを持つ言葉を使いたがるが、国の交戦権を禁止し、国際紛争を武力で解決しない平和憲法を持つ国が他にないとすれば、「普通の国ではない」ことに誇りを持つべきだと思う。そういう国だからこそできる国際的な役割があるのではないかとなぜ考えないのだろうか。

     私が常々言っていることだが、新たな敵を増やさない、敵を作らないという高度な外交戦略を構築し、それを実現することこそが日本の安全を守ることにつながると思う。いまや衰えつつあるといってもアメリカは超軍事大国である。戦後70年の間に世界に多くの敵を作ってしまった国である。先進国の中で最も敵の多い国がアメリカなのである。その国の外交安全保障政策に協力するどころか一体化していくことになれば、作らなくてもよい敵をどんどん増やすことになる。その結果、海外で経済活動をして日本の経済を支える役目を果たしているような在外邦人をどんどん危険に晒すことになる。そういう危険な政策はとらずに、日本が多くの国にとって必要な存在になるような国づくりを進めるべきだと思う。

     例えば国連を中心にした様々な平和維持、平和管理の為の国際機関の事務局機能をどんどん日本に誘致する、あるいは紛争当事国の仲立ちをし、日本で水面下の交渉の場を提供したりする。そういうことは紛争当事国と直接の利害関係を持っている国がいくら呼びかけても実現しないが、平和憲法を持って平和のメッセージを発信してきた日本だからこそ実現できると思う。そういうことがどんどん目に見えてくれば国際社会において日本の存在はますます大きくなってくる。特にこれから国際情勢は更に混乱してくるだろうし、国連だけではどうにも解決できない状況になってくるのは間違いない。まさにこのような時だからこそ日本の果たすべき役割があると思う。政治ももっと知恵を絞っていかなくてはいけない。

     こういう危機的な状況の中で、まず国会議員が党派を超えて国会の権威を守らなくてはいけない。国権の最高機関である国会は主権者である国民から選ばれた議員が国民を代表して議論をしているのだから、国会が指名をした首相の暴走は国会が止めるのだという意識をしっかりと持ってほしい。与党の中でもかつての自民党にはもう少し見識がある人達がいた。内閣を担う主流派がいれば、それを批判する立場の反主流派、また非主流派、中間派といった存在があったが、今は誰も表立って内閣の批判をしようとしない。自民党がダメなら公明党が多少はブレーキをかけてくれるのではないかと期待したが、全くの期待外れだった。このような状況を打開するには改めて主権者である国民が声を上げることが最重要である。多くの人達が様々な分野から声を上げていくべきであるし、その声が大きくなってくれば当然国会に対しても内閣に対しても強い圧力になる。

     もう一つ大事なことは、司法の真価が問われることである。これから恐らく色々な市民グループなどが違憲訴訟を起こすと思う。それに対して司法が的確な判断を下すことが重要である。それを避けたり逃げたりしたら、司法自らが三権分立を崩すことになってしまう。行政府が憲法に違反する行動をとった時には明白に憲法に違反しているということを司法の判断として毅然と示さなければいけない。

     昨年暮れの総選挙の投票率は50%そこそこで、半分近くの有権者が棄権した。投票した人の約半分しか今の与党が票を得ていないとすれば、全有権者のうちの25%の民意をもってこのような暴走行為を行うのだから、他の75%の人達はもっと真剣に我が事として今の事態を受け止めてほしい。私どもの世代はまもなく消えていく世代だから、これから戦場に行くようなことはないが、次の世代、またその次の世代を担うような人達にとってはまさに我が事になる。自分が考えたところで何になる、自分が動いたところで何になるのかと思ってしまったら何も解決はしない。やはり一人一人が自分自身のこととして真剣に受け止め、行動を起こすべき時だと思う。

    憲法改正と国会の定数是正について。

    2015年4月8日(水)

     憲法改正についての動きが色々出てきているが、一方で衆参両院の定数是正の問題も長い議論になっている。特に来年に控えている参議院選挙までに参議院の定数是正をやるべきだということで議論が進められている。私は以前から指摘していることだが、参議院の定数を衆議院と同じように人口比例代表という考え方で整理をしていくと本来の参議院の存在意義が失われていくことなると思う。

     振り返ってみれば、もともと帝国憲法を廃止し、新しい憲法をつくる時にGHQが用意した憲法草案では一院制を採っていたのを、日本が強く働きかけて二院制を認めさせ、現在の衆参両院がつくられた経緯がある。参議院は戦前の帝国憲法下では貴族院だった。貴族制度の廃止に伴い、貴族院そのものが廃止されることは当然の流れだったわけだが、貴族制度を廃止することはよしとしても、国会の中での貴族院の持っている性格、つまり衆議院の政党政治の利害関係のぶつかり合いというものを超えて、より高い次元で国益を考える役割が失われてはいけないという考え方から日本が二院制を主張したのである。

     その時、参議院の構成については、日本全国のそれぞれの地域の代表と職能職域の代表によって構成されるという整理をした。従って地方区と全国区という二つの選挙区がつくられ、職能職域代表は全国区で選ばれることにした。このように二院制をつくった原点から考えると、衆議院のような人口比例代表は考えていなかったわけである。それと同時に、議院内閣制なので衆議院は当然政党政治の場になる。各政党が政権を目指して選挙を戦って、最も国民の信を得た政党の代表が衆議院で内閣総理大臣の指名を受ける。参議院も首班指名選挙は行うが、参議院に総理大臣を選ぶ権限は与えられていない。衆参両院の議決が異なった場合には両院協議会を開くが、そこで意見が一致しなければ衆議院が指名した人が首相になる。議院内閣制の仕組みの中で衆議院の優位性が認められているからである。衆議院は政党の理念、政策がぶつかり合う場になるのは当然のことだが、参議院は発足の経緯から言っても、国民の立場に立って国益を考えて衆議院の政党政治の行き過ぎをチェックすることをやらなければ、参議院をつくった意味がないのである。

     ところが参議院の選挙制度に政党比例代表の仕組みを導入してしまった。私はそのことが参議院の自殺行為だったと思っている。私自身、参議院議員を2期務めた経験があり、参議院改革に精力的に取り組んだ経験もある。その時にも私は同じような意見を主張していた。戦後間もなく参議院がスタートした頃、参議院がまだ政党化されていなかった頃に、無所属議員の集まりとして緑風会という会派があった。私が議席を得たのは1974年。当時先輩議員の中に緑風会に所属をしておられた方が数名おられた。例えば迫水久常さん、新谷寅三郎さん、郡祐一さん等で、そういう方々から伺った話では、政府委員は衆議院に呼ばれる時よりも参議院に呼ばれる時のほうがより緊張したという。参議院にはそれだけ見識を持った論客が揃っていて堂々たる議論を展開されるから、生半可の知識では対応できなかったというのだ。参議院には非常に良識のある方々がおられて、自らが選ばれている地域あるいはまた職能職域を代表して、大所高所から専門的な議論をしておられた。そういう状況だから政府・与党は、衆議院はこなせても参議院はなかなか思うようにいかない。政府提案の法案でも簡単には通らなかったのである。長期政権を担った吉田茂元首相も参議院対策には非常に頭を悩ませた。その結果何をやったかというと、参議院議員からも閣僚を起用するようにした。意図的に参議院を行政府に取り込もうとしたのである。

     一方、全国区という選挙制度の下で議席を得ていた人達は、あまりにも選挙区が広く、選挙費用がかかり過ぎることから、個人の力で選挙を戦うことが容易ではなくなり、組織的に選挙戦を展開できる団体の代表のような人でないと全国区ではなかなか当選できなくなっていた。こういうことがあって無所属議員の集まりであった緑風会が自然消滅をして、結局参議院議員も政党に所属するように変わっていったのである。しかし参議院が政党化してしまうと本来の参議院の役割は果たせなくなってくる。その参議院の政党化を完全に進めてしまうきっかけをつくったのが、政党比例代表の仕組みを参議院に導入したことである。

     現在では衆参両院の役割がどう違うのかといった議論があまりされなくなってしまった。二院制だから憲法上どうしても参議院の審議をやらなくてはいけないということで参議院での審議が形骸化してしまうと、時代の流れがこれだけ早くなってきている時に国会の審議に長い時間をかけることはあまり合理的ではないという意見や、二院制は税金の無駄使いではないかと指摘する人も多くなってくる。国会議員の中でも一院制を推進する議員連盟をつくったりするような人達もいる。

     一方、議員の定数が多すぎるのではないかという議論は常にあり、国会の中よりもむしろ一般の有権者やマスメディアはよくそういうことを言う。現在の政党の中にも橋下徹大阪市長が率いる維新の会は議員定数削減を大きな公約に掲げている。また法律家の間では常に1票の価値の平等が取り上げられる。1票の格差が大きな問題になって、人口がどんどん増えている地域の定数を増やし、減っている地域の定数を減らしていく定数是正が一つの流れになってしまっている。衆議院でそういう議論が出てくることは当然のことだと思うが、もともと参議院は人口比例代表の考え方で構成された院ではないのだと、もう一度原点に立ち返ってよく考えていかないと、結局参議院無用論になってくると思う。

     また最近は国会議員の質が著しく劣化してきているように思う。例えば今まで政治に関心があったわけでもなく、政治家になろうという努力をしてきたわけでもない人が、たまたま党の幹部と個人的な繋がりがあったからということだけで政党の比例名簿に載り、その政党がたまたま大きな追い風を受けた為に議席を得てしまうというようなことが当たり前のようになっている。その結果、いわゆる小泉チルドレン、小沢チルドレン、安倍チルドレン、橋下チルドレンと言われるような議員が現実に生まれている。そういう人達が基本的な勉強もせず、ただ議員として与えられた立場を特権のように思って勘違いしてしまう。最近もそういった類のスキャンダルが次から次へと出てきている。少なくとも比例名簿に載せる前に、果たして国会議員たる資質があるのかどうか、各政党は十分に精査して国民、有権者に自信を持って推薦できるということでなければこういう現象が繰り返されてしまう。
    政党比例制度が仕組みとしてある限りは、政党が候補者に責任を持たない限りこういうことが繰り返されてしまう。私は参議院が政党化されることは日本の将来の為にもマイナスだと従来から思っている。

     衆参両院とも人口比例を基本にして定数是正を行えば、人口の増えている地域の定数が増えて、人口が減っていく地域の定数は減っていくのは当然のことだが、そうなれば人口の多い地域の声が益々大きくなって、少ない地域の声は小さくなっていく。近年、日本の国土の荒廃が著しく進んでいる。それは人があまりにも偏って居住するようになったからである。もともと日本はバランスよく人が居住し、自然と調和し、その自然環境を守りながらそれぞれの地域で個性的な文化を形成してきた国である。ところが明治維新の中央集権体制が今日までずっと続いてしまい、しかも小泉政権以降は国土政策に競争原理を導入してしまった。人口の少ない地域に公共投資をすることは、経済合理性から考えて無駄な投資だと言わんばかりの政策が続いてきた。小泉政権以降は地方の過疎化、高齢化、少子化が極端に進んでしまった。いわゆる限界集落がどんどん増えて、国土保全をすることがそこに住む人の力ではできなくなってしまった。また大きな自然災害が起きれば、災害復旧・復興の為にかえって巨額の予算が必要になってきている。

     世界に誇るべき日本の文化は決して大都市から生まれたのではなく、また現在も大都市にあるのではなく、政治の灯が当たらなくなりつつある地域にこそ日本文化の原点がある。政治はそうした地方にもきちっと目配りしながら、全国どこに住んでいても生きがいが感じられる生活が享受できるようにしていくべきではなかろうか。そういうことを考えても選挙制度は最も大切な政治課題である。

     よくメディアや学者が定数是正、1票の格差の話をするが、例えば有権者数が40万人の選挙区があったとして、過去5回の選挙の平均投票率がその地域では75%だったとする。過疎地域だけれどその地域を何とか改善してほしい、住みやすくしてほしいという願いのもと75%の人が投票しているとすると、30万人が投票していることになる。かたや仮にその選挙区の2.5倍(100万人)の大都市の選挙区があったとする。そこの選挙区で過去5回の選挙の平均投票率を見たら30%しかなかった。その場合の投票人口も30万人。人口が2.5倍あっても投票人口は変わらないというケースはよくあることなのだ。定数を有権者数だけで比較してけしからんというのはかなり一方的過ぎる意見だと思う。やはり選挙区における平均投票率も定数是正の議論の時には加味して、議論を進めるべきだと思う。

     こういうことを諸々考えてみると、参議院はどうしてつくられて、どういう役割を期待されているのかということを改めて原点に立って考え、衆参両院の役割分担を憲法上明確にすべきではないかと私は思っている。憲法改正の話が色々表に出始めている時であり、衆参両院のあり方をもう一度見つめ直すことも憲法改正の大きな論点にしていくべきだと思う。

     参議院がつくられた経緯から考えてみても、参議院の政党化が参議院の無力化に結びついてしまったのだから、参議院は政党比例代表をやめにして、アメリカの上院の仕組みのように地域代表という考え方で47都道府県それぞれ一律に定数2にし、3年ごとに半数を改選していけば参議院議員は94人に減る。選挙の際に、政党の推薦を受けることは構わないが、当選をした人はすべて無所属になり政党政治から離れるようにすべきだと思う。それぞれ高い見識を持って国益を考え、衆議院の政党政治の行き過ぎを是正する。
    それと行政府と一線を画して立法府の院に徹する。参議院議員は閣僚とか副大臣とか政務官にはなれないということにすべきで、内閣に入りたい議員は衆議院に転進すればよい。参議院は立法府に徹して、法律を直したりつくったりする。最近は議員立法が減ってきて内閣提出の法案が圧倒的に多くなっているのだから、参議院議員を中心に議員提案の法案を出していく。そうしていくことが逆に行政府に対しても大きな存在感を示すことになる。

     最近の政治手法は小泉首相以来、首相が国会を従えるようなやり方になっている。安倍首相も「日本の最高責任者だ。」としきりに言うけれども、国権の最高機関は国会であって、内閣総理大臣は国会で指名されて内閣を組織している行政権の長であり国の支配者ではない。最近は首相が国会に対して指示命令をするような態度を取るし、与党もまた唯々諾々として、内閣主導という言葉の下に力を失ってしまっており、内閣に対して言うべきことを言わなくなってきている。三権が互いにチェック・アンド・バランスをするのが三権分立のあるべき姿だが、現実には行政の長である首相が自分の生みの親である立法府の上に君臨しているような姿になっており、司法もそれに従っているような姿になっている。憲法上首相には最高裁長官の罷免権はないけれども指名権は与えられている。安全保障や外交など高度な政治判断を要するような案件については最高裁が判断を示さないことがあるが、これでは益々行政権が強くなってしまう。憲法に反しているということを本来は司法が判断しなくてはいけないのに、高度な政治判断を要する案件だとして逃げてしまうのでは結局、行政権の独走を許してしまう。

     集団的自衛権の問題にしても、明らかに憲法に反していることなのに内閣の判断で憲法を都合よく解釈して閣議決定してしまった。これが憲法違反だということを言える存在がないと三権分立は成り立たない。だから私は憲法裁判所が必要だと思っている。憲法を改正して最高裁で判断がつかないような案件を憲法裁判所に持っていくような仕組みもつくっていかないと、内閣の暴走を止められないだろう。